クリエーティブミュージアム

私らしく青の世界

作品紹介   あとがき

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前編

 未完成のキャンバスを見つめながら、何時間も絵筆をひたすら握っていた。
 窓際で風に揺られるレースのカーテン。そこから透けて見える景色は、夕焼けの茜色に染まっていた。
(結局、今日もこうやって時間を過ごしてしまった)
 この時間まで美術部の部室に残っている生徒は自分だけ。ゆっくりと、無言で絵の具、パレット、そして使い慣らした絵筆を片付けていく。
(どうして、描けないんだろう)
 美術用の前掛けを外し、スカートをはたいて立ち上がる。
 不調とかスランプとか、そんな一般用語では言い表せない閉塞感。まるで暗黒の世界をさまよっているような…。もっと具体性を求めるなら、ムシャクシャして毎日が楽しくない感じ。今までとはランクが違う挫折を私は味わっていた。
 蛇口をひねって水をだす。どこの学校でも備え付けられている網に入った石鹸で、絵の具のついた手のひらを丹念に洗う。今日は大して汚れもしなかったのに、いつも以上に力を込めてゴシゴシと擦る。
 この石鹸の香りは昔から好きだ。うちに帰れば、美しい花の香りがするハンドソープで手を洗うが、この素朴な香りほど良いものではないと感じる。なによりも、絵を描き終わった後は、必ずこの石鹸で手を洗ってきた。この香りには、達成感や充実感が詰まっている。でも今日は…。
 未完成のキャンバスに目隠しを被せると、私は美術室を後にした。

 手すりに掴まりながら、ゆっくりと階段を降る。一階にさしかかる頃、下から私を呼ぶ声が聞こえてきた。
「三条」
 美術部顧問の安藤先生だ。
「今日も三条が最後か。コンクールに出展する絵は…」
 先生は、私の顔を見て言葉を途中で飲み込んだ。
「まあ、明日からは三連休だから、ゆっくりと休んで。この調子だと、体調を崩す」
「わたしは大丈夫です」
「それは大丈夫な人間が口にする言葉じゃないぞ」
 言われてみると、そうかもしれない。
「他の部員から聞いたぞ。毎日、居残りして頑張ってるんだってな。でも、そんなに根を詰めるな。三条ならやれる。二年連続で最優秀賞を取ったのはお前だけだ。才能があるんだから大丈夫!でも、体を壊すようではダメだ。外も暗くなってきたし、早めにうちに帰りなさい。それじゃあ、先生は仕事があるから」
 安藤先生は少し微笑むと、すれ違うように階段を上っていった。見上げた背中が、徐々に小さく遠ざかってゆく。
 そうだ。私はこれまでの人生で多くのコンクールに入選してきた。それなりに実力はあるはず。先生も、そう認めてくれている。でも、今回のように多くを悩むことはなかった。適当ではないが、それなりに時間をかけて丹念に仕上げた絵。それで多くのコンクールでは入選することができた。でも、なぜか今は自分で描いた絵を納得することができない。作品の質としては最高傑作であるはずの絵を納得することができないのだ。「何かが欠けている」そんな漠然とした違和感を感じる気もする。しない気もする。何が悪いのかが、まるで分からない。
 閉門を告げる校内放送が校舎に鳴り響く。ボーっと考えごとをしているわけにもいかない。私は急いで玄関の靴置き場で靴を履き替えて、校舎を後にした。

 自転車置き場で、自分の自転車のキーを外す。前屈みになった視線の先に、たんぽぽがひっそりと咲いていた。
(たんぽぽはいいな。絵を描かなくていいんだから)
 そっと避けるように自転車を出し、カゴに通学鞄と画材入れを収める。
 この学校は坂の上に建っている。それで帰りは坂を下ることになる。傾斜が結構キツイので、自転車に乗っていては危ない。なので、校門を出て坂を下り切るまでは、自転車を手で押すことになる。中にはヤンチャな男子が自転車を滑走させながら下ることもあるが、私には怖くて無理だ。
 坂の下には住宅地が立ち並ぶ。ちょうど今、夕焼けが、ぽっかりと住宅地の上を通り過ぎようとしている。違う解釈をすると、オレンジ色の太陽が住宅地に落っこちているようにも見える。そんな見方をする自分に、少しながら滑稽さを覚えた。
 太陽が沈むと、とたんに冷えるこの季節。寒さは忘れても、気温差に体が慄く。空気は重くなり、風は坂を下る追い風になる。髪の毛が前に前にとなびく。私はそれを右手で抑えながら、坂を下る。ほのかに石鹸の香りがした。
 不意に情けなくなってしまった。
(どうして…、描けないんだろう)
 私は少しだけうつむいて、坂を下り切った。

 私は自転車に乗ると、ペダルを漕ぎ出した。風がさっき以上に強く顔に当たる。
 どこか遠くで、さよならを言い合う子供たちの声がする。「またね」とか、「じゃあね」とか、確認しあうような大声。高校生にもなれば、ひどく懐かしく感じる。
 隣を横切る住宅からは、どこからも夕食のにおいがする。中でも、焼き魚とカレーは強いにおいを放つので、分かりやすい。
 大きな道路から、コンクリートで塗り固められた川の手前の路地に入る。
 見慣れた景色が続く。
(あっ…)
 ふと、今朝までは腰丈まで生えていた空き地の草が、すべて刈り取られていることに気がついた。
 毎年の通例行事だから分かる。誰かは知らないが、近所のおじさんらしき人が、草刈機を持ち出して刈って行くのだ。
 草を切った時の、あの独特な刺激臭が鼻につく。少しだけペダルを漕ぐ足に力が入る。
 この香りは嫌いだ。山に近い、父のあの実家を思い出す。だから、嫌いだ。
 空き地を通り過ぎ、行き止まりの曲がり角を右に曲がると、家はすぐそこに見える。
 自転車の速度を徐々に緩めて、最後は片足をブレーキにして止まる。
 我が家だ。

 珍しいことに、父が先に帰ってきていた。車が車庫に入っている。
 私は、自転車を車庫の端っこに置き、カゴから荷物を取り出して、うちに入った。
「ただいま」
 いつもなら返ってくるはずの返事がない。たまには聞こえないこともあるだろう。
 調子が狂い、数秒立ち尽くしてしまったが、私は靴を脱いで、うちにあがることにした。
 私は、リビングに通じるドアを開ける。
「ビックリしたぁ」
 母親が、驚いた表情で私を見つめている。
「帰ってきたのなら、ちゃんと声かければいいのに」
「ちゃんと、ただいましました」
「あら…。気づかなくてゴメンね」
 母の隣には、父がいた。
「おかえり、葵」
 いつもは、ただいまを言う父に、おかえりを言われたので、ますます調子が狂った。
「ただいま」
 どうやら、二人は私が入ってくるまで話しをしていたようだ。母が夕飯の支度もせず、ソファーに座って、テーブル越しに父と対面している。
「あっ、もうこんな時間なの。夕飯まだ作ってないのよ、ゴメンね」
 母は、キッチンに入ると、冷蔵庫からしきりに食材を出し始めた。
 それを見た父は、テレビのリモコンを手に取り、電源を入れると、ニュースにチャンネルを合わせた。七時にはまだ早い。ローカルニュースの最後がテレビに映った。
 どうやら、私が入ってきたことで、話しの腰を折ってしまったらしい。
 二人が何を話していたのか気になったが、こうなっては聞くのも野暮なので、質問は胸の奥にしまうことにした。
 私は、重たい荷物を担いで、自室への階段を上る。
 二階に上がって、奥の部屋が私の部屋。手前は弟の部屋。彼は今年中学二年生になったばかり。最近では、誰に習ったか知らないが、へたくそなギターを掻き鳴らし始めた。
 弟の部屋を素通りして、自分の部屋のドアを開ける。
 机に、担いできた重たい荷物を置くと、私はベッドにずっしりと座った。
 時計を確認する。七時ちょっと過ぎ。
 夕飯まで三十分はかかると見積もって、少しだけ息を抜くことにした。
(どうせ、下に降りてもニュースを見ることになるから、絵の教科書でも読もう)
 本棚から、画家「イヴ・クライン」の作品集を取り出す。これが私の教科書だ。
 青色をこよなく愛した画家、イヴ・クライン。彼の世界は青一色だ。彼のことをそれほど多くは知らないが、この青い宇宙を見ると、私の心に微風が吹き抜ける。抽象的な表現ではあるが、私なりに的確だと思っている。
 私の名前は、葵と書いて「あおい」と読む。名前の発音が青いなのだから、青色に心を惹かれるのも、おかしくない。実際、母に言ったら、笑われるかもしれないが。
 黄昏時の薄明かりの部屋では、イヴの作品を眺めることができない。私はカーテンを閉めて、部屋に明かりをつけた。
 本に傷がつかないように、そっとページをめくる。
 私が求めているのは、この青なのかもしれない。でも、私が同じ絵の具を使っても、この青を表現することは無理だと思う。彼は、物質の本質を見出そうとした画家だ。彼と同じ世界を見なければ、同じ色はだせない。でも、私が今求めているのは、この色だ。
(どうすれば、こんな青を描けるんだろう)
 才能がないのかもしれない。所詮は、日本国の高校生コンクールで最優秀賞を取っただけの女だ。
 少しだけ気だるさを感じた。
 私は、イヴの本を閉じると、そのまま眠りに落ちそうになった。
(今なら、青い夢が見られるかもしれない)
 瞼がまどろんだ。
 ふかく、ふかく…。
「オネエ、晩飯だって!」
 壁越しに聞こえた大声で、パッチリと目が醒めてしまった。
 ズカズカと階段を下りる音が耳に障る。
(やっぱり、才能がないのかもしれない)
 私は、制服を脱いで、普段着に着替えると、手すりに掴まりながら、階段を下りた。

 父がビールを飲む。父が口を拭く。父が料理を食べる。父が箸を置く。
 普段、夕飯の食卓に父の姿はないので、その行動のひとつひとつが気になってしまう。
 朝は、私が起きる頃に家を出て、夜は、お風呂に入り終わった後に帰ってくる父。
 よく考えると、出会うことは滅多にない。でも、不思議とギクシャクはしない。とても不思議な関係。親子。
 父が私を見つめている。
「どうした。具合でも悪いのか」
 隣で弟が、もそもそと顎を動かしている。
「箸が止まっているぞ」
 言われて気がついたが、父を見るあまり、食事に手がついていなかった。
 私はとっさにコロッケをかじった。
 父が不思議そうに私を眺めている。
 私は何事もないかのように装う。
 父の箸がまた動き出す。
 口を利きたくないわけではないが、こちらも驚いてしまい、とっさに平静を装ってしまった。この行動には、自分でも驚いている。
 母が、油の後片付けを終えて、キッチンから食卓についた。
「ゴメンね。今日は時間がなかったから、手早く済ませられる揚げ物になったの」
 弟は、無言で席を立つと、炊飯器を開けて二杯目を盛って戻った。
 私は母に顔を向ける。
「この前の冷凍食品半額セールで買い漁ってきたやつでしょ」
「うん、それそれ。安かったでしょ?そういう時じゃないと買い置きできないから」
 母が、コロッケをひとかじりする。
「おいしい、おいしい。また安いときにでも買い置きしておかないとね」
 こんな会話の最中でも、私の心は父を見ていた。
(嫌な思いをさせてしまったかもしれない)
 顔は母を向き、表情は笑っていても、私は心の中で父を見ていた。
「うん。また買っておいて」
 そっけない返事をしてしまったかもしれない。私はまたコロッケをかじる。
 いまさら気づいたが、これはあまり好みではないカニクリームコロッケだった。

 弟が風呂に入っている間、私は自分の部屋で、読みかけの小説を読んでいた。
 といっても、今の時代はパソコンで誰かが書いた小説を見られる時代。ページをめくる代わりに、マウスを右クリックする。
 この小説は、あくまでもプロが書いたものではないので内容の保障はできないが、無料で見られる利点がある。
 今読んでいる小説は、内容こそ面白みに欠けるが、スランプに悩む少年が描かれた作品だ。
 きっと、この小説を書いた人も、スランプに足掻いた時期があったんだと思うと、やけに親近感が沸く。もしかしたら、スランプの最中で書き上げた小説かもしれない。
「あっ」また誤字を見つけた。
 それでも、書けるだけ私よりも優れていると感じる。
 今の私は、描くことを躊躇っているかのようにも思える。怖いのかもしれない。

 それよりも、今日は父のことがとても気になっていた。
(どうして、あんなことをしてしまったんだろう)
 普段会って話さない分、話したいことはあるはずなのに。あれでは本当に避けているように思われたかもしれない。
 その思いは、湯船に浸かっていても晴れることがなかった。
 私は、風呂場で使っているタオルを、ぎゅっと絞ると、それで丁寧に顔を拭いた。
 でも、よく考えると、父に話したいことってなんだろう。それよりも、父に話していいことってなんだろう?
 どこから見ても仕事人間な父は、どんな話題を提供して欲しいんだろう。
 今回のスランプのことだろうか。しかし、絵には興味もなく、専門知識も知らない父では、私の話し相手になるとは思えない。
 ならば、父の話題に合わせればいいのだろうか。今日は職場で何があったとか。
 無理がある。すぐに思った。
 探してみて分かったが、私と父では話したくても、話題がない。話題がなければ、話しにならない。
 もしかしたら、芸術家肌の私と、仕事人間の父では、相性が悪いのかもしれない。
 それよりも…、住む世界が違うと思った。
 私は、少しだけ身震いがして、首まで湯船に浸かった。

 バスタオル姿の私は、自分の部屋に戻るために、リビングに入った。
 ほんの数秒だが、父が新聞紙を顔面に広げて、目隠しをしていることに気づいた。
(私のためにやっているのは分かるけど…)
 父が紳士なのは分かる。だが、それよりも不器用だと思う。
 私は、二階の自室に戻ると、手早く着替えを済ませ、リビングに戻った。
 母が、食器の後片付けをしている横で、冷蔵庫から飲みものを出す。
「あっ、ついでにお父さんにビール持って行ってあげて」
「あっ、うん」
 私は、冷蔵庫の奥からビールを掴むと、それを父に届けた。
「はい」
「ん、ありがとう」
 案外、自然なものだ。やはり、あんなことを考えていても、ギクシャクする関係ではない。とても不思議。親子。
 だが、すぐに気がついた。これは会話じゃない。当たり前に繰り返してきた、ただの行為だ。ビールを置けば「はい」と無意識に言葉が出て、受け取った側も「ありがとう」と表面的な言葉を発する。まるでマニュアルに書かれている機械的なやり取り…。
 私は、私のコップを空にすると、自分の部屋に戻った。

 それからは、忘れたいから、さっきの小説を読んだ。スランプとか、父のこととか。
 誤字が多いし、面白みも劣る。そんな小説でも、私は熱心に読んだ。
 スランプの少年は、死に物狂いで頑張って、最後にはまた自分を取り戻す。そんなハッピーエンド。
(昔の私みたい)
 それが読み終わった感想だった。
 スランプが初めてなわけじゃない。こんなに大きなスランプが初めてなだけであって、私も何回とスランプを経験している。そのたびに、頑張って、努力をして、技術を身につけて乗り越えてきた。
 だから、今の自分がある。今の自分は、昔のようにうまくいかない。ハッピーエンドも、そう長くは続かない。そう思う。
 私は、静かにパソコンの電源を落とした。
 ため息が出る。
 最近は、楽しいことがない。こんな生活が続くと、人並みに「死にたいとか」考える。でも、それすら無理だと理解している。そんな考えの整理は、中学生の頃にとっくにつけてきた。
 また、ため息が出た。
(明日からは三連休だから、ゆっくりと家にいて休もう)
 ほどよく疲れた体をベッドに横たえると、知らず知らずに眠りについてしまった。

 気がつけば、真夜中だった。やけに喉が渇いて、起きてしまったのだ。首で汗をかいている。そろそろ、軽い毛布を出したほうがいいかもしれない。
 多少、意識のちらつく頭を抑えて、私は自分の部屋を後にした。
 声がする。
 私は、ふらふらと二階の廊下を歩く。
 電気がついている。
 私は、階段の段差に座り込み、耳を澄ました。
 母と父が話しをしている。
「アパート…。家賃のこともあるし」
「でもね。…だなんて」
「しかたないだろ。…なん…し」
「そ…ね。…しか…ないのね」
 頭がくらくらする。意識がもうろうとしていて、耳がうまく働いてくれない。これほど低血圧を恨んだ日はないかもしれない。
(ダメだ…。水がほしい)
 私は、手すりに掴まりながら、階段を下りた。声が止まる。
 父と母は、夕方と同じように、テーブル越しに対面していた。
「こんな時間にふたりして、どうしたの…」
 私は、左手で頭を抑え、冷蔵庫から飲みものを取り出しながら、問いかけた。
「それは…」
 母が説明するのを父が止めた。そして、父が口を開いた。
「お父さん、単身赴任することにした」
 一瞬、止まった。飲みものを飲む動作が、思考が。
「それで、あっちで住むアパートを、お母さんと探していたんだ」
 単身赴任。私が幼い頃に一度だけ体験したことがある。父がいなくなる。そう覚えている。
「単身赴任って…、どうしてッ!」
 思えば答えは決まっている。仕事だから以外に答えようがない。
 父は、じっと私を見つめている。
「仕事だからに決まっているでしょう」
 代わりに母が答えた。
 父は、じっと私を見つめている。
 時間が止まったように思った。それだけの時間、互いに沈黙が続いた。
「それより今日はもう寝なさい。後で話すから」
 よく見ると、父には白髪が増えたように思えた。
「ほら、風邪ひくわよ」
 私は、階段を上がって、自室に戻った。
 その姿を、最後まで父は、じっと見つめていたような気がした。

 次に目を開けたのは、朝九時だった。休日にしても、遅い起床である。疲れていたのかもしれない。暑かったのだろう、毛布はベッドの隅っこにまで追いやられていた。
 満足な睡眠のおかげで、調子はよかった。私は、自分の部屋から、二階の廊下に出た。
 その時、足音に気づいた弟が、彼の部屋から顔を覗かせてきた。
「オネエ、飯作ってよ」
「…お母さんは」
「朝早くに出かけた。父さんと一緒に車で。朝飯作る暇ないって言われたから、オネエに作ってもらおうと思って、腹空かしながら待ってた」
「待ってたって。少しは自分でやってみなさいよ。まったく」
「だって、オネエは器用だし、作る飯もそれなりにうまいし」
「それなりは余計です。下りてきなさい」
「おっけい」
 私と弟は、遅い朝食を取るために、一緒に一階のリビングに下りた。

 私は器用と言われれば器用だ。料理も、覚えているものなら、難なく作れる。とはいえ、覚えている品が、朝食に使える程度のものばかりなので、母と料理を代わることはない。
 私は、二個の卵を料理に変えると、それを皿に載せた。
「できた。取りにきなさい」
 弟は、その皿を食卓に並べると、気前よく二人分の箸を用意してくれた。
 私は、換気扇を止めて、フライパンの後始末をし、エプロンを外して、席についた。
 弟は、茶碗に米を盛って、先に料理を突っついていた。
「おいしい?」
「うまいっちゃ、うまい」
「ほめられたとおもっとく」
 私も、今朝の作品を食べてみる。
「おいしい、おいしい。三杯はイケるわね」
 弟は、さっそく二杯目に取り掛かっていた。
 それにしても、母が早朝から居ないことはかなり珍しい。やはり、昨晩のことが関係しているのだろうか…。
「護。お母さん、何か言ってなかった」
「会ってない。書置きだった」
「書置き?」
 弟は、茶碗を持ったままで、近くの棚から紙切れを取り出し、私に渡してきた。
 そこには、「夜まで帰ってきません」とだけ、書き残されていた。
「俺が起きたの八時半だから、それより早くに出かけたんだと思う。それに車なかったから、一緒にでかけたのかなって思った」
 たぶん、赴任先のアパートを探しに行ったんだと思う。それ以外に、子供の朝食も作らずに、出かける理由が見当たらない。
 そういえば、弟は…。護は、父の単身赴任のことを知っているのだろうか。
「ねえ」
 弟は、食事をしたまま、目だけこっちに向けてきた。
「お父さん、単身赴任することになったんだって。知ってた?」
 弟は、数秒間だまって食事を続けたが、頭の中で内容を把握すると、箸を止めた。
「ふーん」
 そして、また箸を動かし始めた。
 その反応には、私が驚いてしまった。私が父に聞いように「単身赴任って?」と聞き返されると思っていたからだ。
「ふーんって…、お父さんいなくなっちゃうんだよ!」
「仕事なんだから仕方ないじゃん」
 弟は、何事もなかったかのように。食事を続けている。
 仕事だから仕方ないと思えば、納得できないことはない。だが、そんなに簡単に割り切られる問題だろうか。
「護は、お父さんがいなくなっても平気なの。もしかして、お父さんのこと…きらい?」
 思えば、護も父と話すような子ではない。男同士で話す話題ならあるはずなのに、話しをしないとなると、嫌いなのかもしれない。
 弟は、茶碗を空にしてから、それに答えた。
「きらいって言われてもねぇ。そりゃ、親だし嫌いじゃないよ。てか、単身赴任たって、今と生活変わらないじゃん。滅多に会うことないんだし」
 弟は、冷静だ。以前に父が単身赴任した時、彼はまだ言葉を覚えたばかりだった。それだと思う。彼は、父がいなくなるってことを、明確に理解できてないんだと思う。
 私は…、父がいなくなって泣いた。まってもかえってこなくて、さびしかった。非常に鮮明に記憶している。いやなおもいで。
「心配じゃないの?」
「オネエは」
「とても心配…」
 弟の表情が、少しだけ曇った。
「俺も、男なんだし…」
「…え?」
 思いもよらない言葉が、彼の口から飛び出したような気がした。
「なんでもない」
 そう言うと、弟は席を立って、二階に上がっていった。
 弟は…。弟は弟なりに、父の単身赴任を割り切ろうとしたんだと思う。父がいなくなるなら、自分が父の代わりになろうと考えたに違いない。強くなろうと思ったんだ。でも、まだ弟は子供だから…。
 無理してるの、伝わった。
(みんな、不安。私も、護も。だから、私がしっかりしないと)
 私は、弟の茶碗を流し台に持っていくと、それに水を張った。

 自分の食事を終わらせた私は、普段やらない家事をすることにした。本当は苦手なのだが、母は夜まで帰ってこないので、やらなくてはならない。それに、父がいなくなってからは、少しは家事を手伝おうと思っている。だから、今日は前準備だと思って頑張ろう。
 とりあえず、洗い物から手をつけた。
 スポンジに洗剤をつけて泡立てる。幸いなことに、食器の数は少ない。コップもひとつしかでてないので、楽だ。
 数分もすれば、洗い物を済ませることができた。
(今度は、お風呂掃除)
 私は、足早で風呂場に向かう。
 とはいえ、風呂掃除なんて、したことはなかった。洗剤をつけて、ゴシゴシすれば、何とかなると思っていた。
 しかし、いざ風呂場についてみると、何をしていいのか分からない。ブラシだって何本か種類があるみたいだし、洗剤だってひとつではなかった。
 とりあえず、洗剤をつけずに、汚れている箇所を水で流して、一番強そうなブラシでこすってみた。何かが違う気はするが。
(……)
 汚れが落ちた確証はないが、これ以上やっても意味がないように思えたので、次の家事に移ることにした。
(次は、お洗濯)
 風呂場から出て、脱衣カゴを覗いてみた。
(……)
 私には、どうしても掴めないものが入っている。弟とお父さんの下着。
 そして、なによりも洗濯機の扱い方が分からなかった。さらには洗剤の使用方法に、乾燥の時間。おまけに干し方も分からない。
(残念だけど、お洗濯は無理か)
 その次に洗うものと言えば、トイレしか思い浮かばなかった。
(トイレはさすがに…)
 無理だと思った。
 やってみて気がついたが、私ができる家事は、朝食を作ることと、食器を洗うことくらいだった。
(よく考えると、学校に行く私が、家事で貢献できることってないんじゃ…)
 私は、慣れないことをやって疲れてしまった。なによりも心労が大きかった。
 リビングに戻った私は、座布団を枕にして、寝そべった。
(なんだか、とても疲れた)
 私は、お母さんの代わりになることはできないと分かった。お母さんの偉大さを感じると共に、弟も、きっとお父さんの代わりにはなれないなと思った。
(こんな私に、価値はないかも)
 つい弱気になってしまう。
 ズカズカと階段を下りてくる音が耳に障る。
「オネエ、昼飯作って」
「お姉ちゃん、疲れてるの…。自分で作って、食べて…」
「……」
 弟がキッチンに向かっていくのが、足音で分かった。しきりに戸棚を開けているのが物音で分かる。数分して、ポットからお湯を流す音が聞こえてきた。
(なんで、男の子ってすぐにカップラーメンに頼るのかしら…)
 弟は、さっさと食事を済ませると、二階に戻っていった。
 私もおなかが空いてきたので、冷蔵庫で何か料理できそうなものを探すことにした。
 野菜は多く残ってあるが、私の料理のレパートリーに合う組み合わせが、なかなか成立しない。
 不意に立ちくらみがした。低血圧の私は、疲れるとよく眩暈を起こす。
(私もカップラーメンにしよ…)
 私は、冷蔵庫のドアを閉めた。

 昼食の後は、思うように体が動かなくて、座布団を枕にしたまま、数時間を過ごした。連日の疲れがピークに達したのだろう。
(そうだ、部屋掃除のこと忘れてた)
 私は、すぐに立ち上がると、物置から掃除機を取り出してきた。
 掃除機は、電源さえ入れば、それなりに動いてくれた。しかし、コンセントの位置が分からなくて悩んだり、誤ってカーテンを吸い込んだりと、決して簡単ではない。
(これだけ頑張って、リビング一部屋…)
 とはいえ、自分ができる、まともな家事といえば、これしか残っていないので、根性でやりきるしか道はなかった。ちなみに、弟の部屋は立ち入りを拒まれたので、本人にやってもらった。
 部屋の掃除を終わらせると、すでに陽は沈みかけていた。
(もう、お風呂の準備しないと)
 考える暇もなく、私は風呂場へと向かう。
 水とお湯の蛇口をひねり、ちょうど良い温度を探る。難しいことはない。前にもやったことがあるからだ。
 浴槽に水が溜まっていくことを確認すると、アラームをセットして、私は、ひとまずリビングに戻ることにした。
 私は、また座布団に寝そべった。
(疲れた…)
 それしか思うことがなかった。
(次は…、晩御飯の支度…)
 ふと考えてしまった。なぜ自分は家事をしているのだろうか。まあ、主婦になれば誰でもすることだ。今からやってても、おかしくないと思う。
 でも、こんなに疲れるものだとは思ってもみなかった。
(結婚するときは、家事を手伝ってくれる人にしよう…)
 ズカズカと階段を下りてくる音が聞こえた。
「オネエ、晩飯」
(もしかしたら、護は一生結婚できないかもしれない…)
 姉の心配をよそに、弟は言った。
「疲れてるなら、俺が近所のスーパーで好きなもん買ってくるけど」
 私は…、それを承諾した。

 晩御飯の食卓には、見事にスタミナ料理が並んだ。食べ盛りの感覚で買ってきたものだから、値段も量もすごいことになっている。
「オネエ、食べないの?」
「遠慮しとく」
 私は、未だに座布団を枕にして、寝そべっていた。なかなか疲れが取れない。
「具合悪いの?」
「疲れてるだけ」
「ふーん」
 それっきり、弟は食事に専念した。
(疲れた…)
 思考がストップしていて、それしか考えることができない。
 こんなに疲れることは、生まれて初めてだったかもしれない。小学校の運動会も、中学校の体育祭も、こんなには疲れなかった。
(疲れた……)
 体がだるい。腕の関節が痛む。疲れたしか考えられない。少し眠い。動きたくない。ちょっと眩暈がする。ため息がでる。意識がはっきりしない。食べ物を受けつけない。このまま倒れていたい…。
 疲れが限界を超えてしまったのかもしれない。風邪をひかなければいいけど…。
 私は、ひとまず風呂に入ることにした。体を温めれば、少しは疲れがやわらぐと思ったからだ。
 私は、バスタオルを持って、ふらふらと風呂場まで歩いた。
(あふれている)
 私は、初歩的なミスを犯してしまった。風呂場の隅で、アラームが鳴っている。
 私は、すぐに蛇口を閉めて、風呂場に鳴り響くアラームをそっと止めた。
 改めて、家事の大変さを思い知らされた。
(こんなこと…、できっこない)
 私は、お母さんの代わりになるどころか、お母さんの助けになることすらできないと理解した。
 情けないと思う気持ちはあるが、疲れが酷くて現実感がない。
 外から、聞き慣れたエンジン音と、車庫を開く音が聞こえてくる。
 帰ってきたようだ。

「ただいま。あら、お風呂沸かしてくれたんだ。ありがとね」
 両手に、スーパーのビニール袋を持った母が、私を見つけて、そう言った。
「はい。晩御飯」
 母は、その袋を私に見せるように、肩の高さまで上げてみせた。
 私は、ほっとする反面、「もう少し早く帰ってきてくれれば」と嘆いた。
 母は、重い袋を持っているため、挨拶もほどほどに、リビングへと向かって行った。
(毎日あんなことやってるのに、お母さんが疲れているところ、みたことない)
 頼もしく思った。実際、父が居なくなっても、母ひとりでやって行けるのではないかとすら錯覚した。
 リビングから、こんな会話が聞こえてくる。
「ほらほら、護。今日の晩御飯は奮発して、お寿司買ってきちゃった!…って、その料理、どうしちゃったのよ!」
「近所のスーパー行って、買ってきた」
「ああん。せっかく、おなか空かして待ってると思って、奮発したのに」
「大丈夫。食えるから」
 こんなやり取りができるほどに元気なら、これからは私に代わって高校に行ってもらいたい。きっと、母なら第二の人生をエンジョイできるはずだ。
 玄関のドアが、静かに開いた。
「ただいま」
 父だ。
「お、おかえり」
 父は、靴を脱いで玄関にあがると、音も立てずに歩いた。
 私と父が、廊下ですれ違う。
 去る父の後姿を、私は目で追った。
(……)
 息を呑んでしまった。父には存在感がないことに。いや、むしろ存在感を消していると言うべきだと感じた。ずっしりと存在しているのに、まったくそれを見せつけない。
 でも、私は父の後姿に、存在感を感じた。まるでライオンのようなイメージを。
(どうして、気づかなかったんだろう)
 父は、毎日繰り返していたはずだ。仕事から帰ってきて、私と母と弟がいるリビングに行くまでの間に。何回も。
 父親は縁の下の力持ちと呼ばれるが、その舞台裏を見たような気がした。
 私は、ふと我に返った。
(お風呂、入らないと)
 私は、風呂場へと向かった。

 数十分後。

 風呂をあがると、すでにリビングに父の姿はなかった。残っているのは、寿司の抜け殻と、家計簿をつける母の姿だけ。
「お父さんは?」
「疲れたからって、もう休んだわよ。今日は朝早くから、車の運転が続いたから」
 八時前のおでかけだ。よほど遠いところまで行ってきたに違いない。
 私は、二階で着替えを済ませると、すぐにリビングに戻った。
 母が、家計簿をつけながら、話してきた。
「護から聞いたわよ。今日は頑張って、家事してくれたんだってね」
 母は、数秒間ペンを走らすと、記入を済ませた家計簿を閉じて、私を見た。
「まさか、葵がそんなに優しい子だとは思ってなかったわ。ありがとうね」
 少々余計な言葉が混じっている気もするが、目を見れば、本心から褒めてくれていることが分かる。でも…。
「ダメ。私に家事は無理だった。洗濯もトイレ掃除もできなかったし、お風呂だって溢れさせちゃった」
 私は、母と対面できる位置で、正座した。
「あらら」
 母は不思議な表情をした。笑っているような、困っているような…。嬉しいような。
「誰だって、はじめはそうよ。生まれてすぐに字を書ける人間はいないでしょ?」
「でも、才能とか適性とか…」
「あら。お母さんは、努力次第で、できるようになると信じているけど?」
「努力する気がないから、才能もないの!」
「あらら」
 母は、また不思議な表情をした。上の立場から私を見ているような気もする。
 母は、言葉を続ける。
「お母さんだって、はじめはダメだった。疲れたし、面倒だったし、やめたかった。でも、お父さんが一緒だと頑張れた。要するに愛情ってことかしら?愛情も才能のうちよ。葵も結婚すればわかるかもね」
 母は、くすくすっと笑った。
 私は、その態度が癪に障って、少しだけムッとした。結婚といわれても、今の私には理解できるはずもない。難解なIQクイズで、おちょくられた気分だ。
「護よりは、先に結婚するつもりでいるから安心して」
「?」
 昼間の護の態度を知らない母は、一瞬だけ思考が止まったようだった。
「それはそうと…」
 母は真剣な顔になった。
「お父さんの単身赴任のことだけど、隠すつもりはなかったの。急なことでね。それに、お母さんだって知ったのは、つい最近。元を正せば、お父さんが隠してたことになるわ」
 父が隠し事を。違う。
「お父さんは話せなかっただけだよ。きっと、私たちに心配かけたくなかったから…」
 母は目を丸くすると、また真剣に戻った。
「そうね。優しい人だから…」
 言葉が詰まってしまった。私も母も。
「ところで」
 沈黙を崩したのは、私だった。
「どこに」
 母は、一呼吸してから、それに答えた。
「高速道路を二時間走った先にある場所。そうね、お父さんの田舎の方角よ。山が近くて、コンビニも無いようなとこだった。今日ね、お父さんと一緒に行ってきたの。空気が良くて、良いとこよ」
 都市的な住宅街しか知らない私にとっては、その良さを理解できない。でも、本人が良いと思うなら、そこは良い場所だと納得しよう。
「なんだか、重要な役職に付くみたい。資材管理とか、原料確保とか。とっても大事な仕事だから、現場に近いとこに住まないと、いけないんだって」
 父の会社で何をしているかなんて知らないけど、母が深刻に話すから、社運なんたらの重要な事業の責任者になるのかもしれない。
「葵も護も大きくなったから、一緒に連れて行くわけにはいかないって、言ってたわ。お母さんにも、ついてくるなって」
 母は、一段と深刻な表情になった。
「お母さん、心配で心配で…」
 お母さんが心配なのは分かる。あんなライオンみたいなお父さんがいなくなるんだから。でも、これじゃ護が可哀想。
「大丈夫よ、お母さん。私たちがついているんだから。それに、護だって男の子。少しは頼りにしたって、バチは当たらないわ」
 その言葉を聞くと、母はまた不思議な表情をした。そして、じっと私を見つめる。
「うん…そうね。でも、お父さんは誰にも頼れないから…」

 あっ。

「お父さん、家事とか全然ダメだから、きっと、部屋とか汚くなっちゃうわ」
 私は、掃除機すら満足にかけられなかった。
「洗濯物だって溜まっちゃうだろうし、週に一回はトイレも洗わないとね」
 私は、洗濯もトイレ掃除もできなかった。
「毎日の食事だって、うちで食べさせてあげれるような料理は…」
 弟は、カップラーメンに頼る。
「ゴミだって、溜まったら出さないと」
 発想すらなかった。
「……心配だわ」
 母は、父のことが心配だった。私は、自分を取り巻く世界が変わることが心配だったのかもしれない。
(……)
 母は、それっきりテーブルにうつむいて、黙ってしまった。眉は極端に寄せられ、瞳は潤んでいる。
 私は…、こんな母に、なんと声をかければいいんだろうか。
 私には権利がない。
 私が、時計の秒針がコチコチと鳴るものだと気づいた頃に、母は顔をあげた。
「護、お風呂まだだったわね」
「私が、呼んでくる」
 私は、二階へと逃げた。どうしても、その場には存在することができなかったからだ。
(恥ずかしい。情けない)
 誰もいない場所へ行くと、不意に涙がこぼれた。堪える間もなくポロリと。一滴、二滴。
 私は、弟にドアノックで合図すると、自分の部屋に隠れるように逃げた。
 こんな表情は、誰にも見せたくなかった。

 私は、震える喉を押さえつけて、気持ちを静める。その嗚咽が止まるまで、しばらくの時間が必要だろう。
 立ち尽くす。
(わたしは、バカだ)
 父が、トイレ掃除をしている場面を、思い浮かべる。ゴシゴシと、便座の中を、こすっている。
 父が、帰ってきた場面を、思い浮かべる。電気は、自分でつけて、それから食べる料理を準備する。つかれていても、何十分と。
 父が、朝起きた場面を、思い浮かべる。だれもいない。それだけ。本当にそれだけ。
 本当に大変なのは父だ。本当に疲れるのは父だ。本当にさみしいのは…、父だ。
 嗚咽は止まらない。
(じゃあ、わたしがお父さんのためにできることって、何?)
 仕事も代われない、家事もしてあげられない、一緒にいてあげることも…、できない。
 泣きたくて当たり前だと思った。
 泣くことしか、してあげられないから。
 私は、ベッドに寝転がると、枕を抱いて、堪えることをやめた。

 それから、残りの休日は、過ぎ去って。


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