後編
  
 私は、自転車を手で押しながら、坂を上っている。辺りには、数十人の私と同じ制服を着た生徒ばかり。皆、同じく自転車を手で押している。三連休を終えたばかりで、誰もが憂鬱な顔をしている。私もそんな顔をしているかもしれない。 
 でも、学校に着けば少しは安らぐ。授業時間は、それに集中するし。休み時間であれば、友達とおしゃべりする。悩みがあっても、この時間だけは無心でいられる。 
 学校に着いた私は、いつもどおりの授業を終え、放課後を迎えた。 
 キーン、コーン、カーン、コーン。 
 教科書を鞄に戻している私の机の前に、ひとりの顔見知りがやってきた。 
「葵。顔色悪いぞ。たまには部活休めよ」 
 彼は美術部副部長の池上幹也。なぜか小学校から同じクラスになることが多く、部活も同じ系列だったため、今では腐れ縁なんだと思っている。 
「あたし、コンクールに出展する作品、でかさないといけないから」 
 幹也の両眉がハの字になる。 
「俺だって、できてねーよ。でも、今日は休むことに決めた。運動部と違ってさ。美術って躍起になってうまくなれるもんじゃねーしさ。だから、お前も休めよ。んで、一緒に帰るべ。イヴの本返すしさ」 
 たくましいと思った。褒めてはいない。 
「でも、あたしは…」 
 幹也は私の机をバンと叩いた。 
「ナンセンスッ!」 
 幹也の口癖だ。 
「言っちゃ悪いけどさ。部活行っても筆握ってるだけじゃん。現代の効率社会に置いて、あまりにもナンセンスだ。やれる時にこそフルパワーで頑張るのが、プロのやり方さ」 
「でも、期日まで時間ないし…」 
「つーか、一緒に来いよ!」 
 幹也は私の鞄を奪うと、その足で廊下に飛び出していった。 
「あ、こら!」 
 私は、すぐに幹也を追いかけた。 
 普段はこんな幹也じゃない。いくらなんでも、ここまで強引なやつじゃない。知っている。何か裏があることを。 
 でも、鞄を奪われたのは事実で、取り返さなければいけないのは運命。私は、走って幹也を追いかけた。 
 階段を下りて、靴を履き替えて、グランドを駆けて、校門前で止まる。 
「ここまできたら、一緒に帰るよな」 
 ゼエゼエと荒れた呼吸が収まるまで、返事をすることができない。 
「わかったから、かばんかえして…」 
 幹也は、少しだけ罪悪感を覚えたようだ。砂埃をはたいてから、私に鞄を渡す。 
「んじゃ、帰るど」 
 方言が次第に無国籍になってゆく。本当はなまってなんかいないのに、照れ隠しで方言を使うから、そうなる。 
 多少、気になる点はあるが、私は幹也と一緒に帰ることになった。
  
 いつもに比べると早い帰り道だ。太陽はまだてっぺんだし、空だって青々としている。私と幹也は、お互いに自転車を押しながら、学校の坂道を下っている。 
「でさ、妹の彼氏がうちにきたわけよ。ガキのくせして、ちゃっかりしてるよなー」 
 手で押す車輪が、カタカタと音を鳴らす。 
「でさ、味噌汁おかわりしちゃったよ。味噌汁だけはうまかったからな。あの店」 
 風がうるさい。私は、右手で髪を押さえる。 
「……」 
 幹也は少し黙ると、私を真剣に見つめた。 
「お前、進路どうするんだ」 
「進路決めてない」 
「美大とかは?」 
「う〜ん、どうだろ」 
 幹也はまた少し黙ると、こっちを見つめた。 
「俺は美大に行きたいけど、才能ないから」 
 私は、思わず目を丸くして、幹也を直視してしまった。そんな言葉が幹也の口から出てくるとは、思ってもみなかったからだ。 
「ちょ、幹也才能あるよ!」 
 お世辞じゃない。幹也は美術に熱意を持って取り組んでいる。半端じゃない。 
「ダメだよ。俺、賞取れないし」 
 確かに、幹也は賞を取るような絵を描くタイプじゃない。でも、同業者の私が認めるくらいだから、才能はある。 
「だから、お前には美大目指して欲しいなって思って」 
 私は正直、美大に進学するつもりはなかった。絵を習うためだけに学校に行くなんて、なんだか気持ちが悪いと思っているからだ。それに、絵を描くことを作業にしたくなかった。私は美大を怖い場所だと思っている。私の美大に対するイメージが捻じ曲がっているのかもしれないが。 
「あたしだって、美大とか無理だよ」 
「コンクールで最優秀賞取れば、有利だって聞くけど」 
「有利とか、不利とかじゃなくて、あたしには才能ないから」 
 その答えには、幹也の方が驚いてしまった。カウンターパンチを食らったような気分だと思う。 
「そんな馬鹿な」 
 私は、絵を描けるだけであって、幹也ほどの情熱を注いでいるわけではない。将来とか考えるほど、頑張ってないってことだ。でも、与えられたキャンバスを塗り潰すことには、生きがいを感じている。これからも絵を描きたいと思っている。だが、それでお金が稼げるとは思っていないのだ。 
 幹也は、ふうっと息を吐き出した。 
「才能って、なんだろな。俺はお前の方が才能あると思うけど」 
「あたしは、幹也の方がずっと良い才能を持ってると思う。将来的だもん」 
 でも、才能があると言われたことに関しては、私も意外だった。自分では、何事にも才能があるとは思っていなかったからだ。絵は秀でているだけであって、それが才能だとは思っていなかった。才能は、幹也のためにある言葉だと思っていたくらいだ。 
「俺、才能持ってるって言われたの初めてだ。親父もお袋も、おまえには才能がないから諦めろって、言ってばっかだし」 
「あたしだって、才能があるから美大に行けって言われたの初めて。そもそも、美大って単語聞いたのも久しぶりだし」 
 しばらく、車輪の音がカタカタ鳴るだけだった。その間、お互いに同じことを考えていたはずだ。 
「あっ」 
 幹也が両手を叩いてガッテンする。 
「俺、用事思い出したわ。そんじゃ」 
 幹也は自転車にまたがると、坂道を滑走しながら去って行った。 
(人を呼び出しておいて、ナンテヤツ) 
 でも、憎しみよりは、清々しさの方が大きかった。少しだけ、吹っ切れた感じがする。 
(美大か。あいつと一緒なら、いいかも) 
 あっ。変なことを考えてしまった。断じて幹也のことが好きなわけではない。
  
 私は、坂を下りて自転車を漕ぐと、いつもより遠回りして、うちに帰ることにした。 
 近所の道とはいえ、走り慣れた道をひとつ曲がっただけで、景色は様変わりする。 
 いつもは存在すら気づかない、花が咲いていたり。 
 いつもは存在すら気づかない、人と出合ったり。 
 いつもは存在すら気づかない、空気のにおいがしたり。 
 景色が変わっただけじゃなくて、私の心に発見する喜びが芽生えたんだと思う。 
 だって、ここは小学生の頃にいつも歩いていた通学路だから。 
 あそこに電柱が立っているのは知っていた。でも、その電線が小学校に延びているのは気づかなかった。 
 あのお屋敷の庭に、大きな木が生えていることは知っていた。でも、その大枝に鳥寄せ小屋が設置されていることには気づかなかった。 
 私の背が、あの頃と比べて伸びたことは気づいていた。でも、こんなに広い世界が見渡せるとは、気づいてもみなかった。 
 私には、私の世界が少しだけ見えた。私だけの青の世界が見えたんだ。 
 私は決めた。 
(見つけよう。私のやり方でできることを) 
 顔を撫でる風が、やけに心地よかった。
  
 いくら遠回りでも、自転車に乗っていれば、さほどの時間もかからずに、家まで帰ってきてしまった。夕暮れまで少し時間が余る。 
「ただいま」 
 私は、玄関で靴を脱ぎながら、奥に向けて声をかけた。 
「おかえり」 
 母の返事が返ってくる。 
 私は、洗面所で手洗いと、うがいを済ませると、リビングに入った。 
 キッチンには母が立っている。夕飯の支度の下準備をしているようだ。 
 私に気づいて、顔をこっちに向ける。 
「今日は早かったのね。部活は」 
「うん。今日は休んだの」 
「あら珍しい。明日、雨を降らす気ね。体育祭でもあるの?」 
 子供の頃、町内のマラソン大会を休みにしたくて、てるてる坊主を逆さづりにした時のことを、母は未だに覚えているようだ。 
「最近じゃ体育祭も、おっきな屋根のついたスタジアムを貸しきってやるのよ」 
「へえ、お母さんもそんな時代に学校に通いたかったわ」 
 冗談もほどほどに、私は二階の自室に戻って、私服に着替えた。 
 私は、机に座ると、鞄を開いて、中身を明日使う教科書に入れ替える作業を始めた。 
(世界史に、数学Aに、英語に、音楽…) 
 音楽の教科書を手に取った瞬間だった。 
 近所から、ギターの音が聞こえてきた。 
(ビートルズ?) 
 私は、作業を中断して、窓を開ける。 
 見渡しても、近所でギターを弾いている雰囲気はない。それにしても、大音量だ。 
(たしか、この曲は…) 
 お母さんが好きな曲。タイトルは、イマジン。正確にはビートルズの曲ではないが。 
 そのクラシックギターの音色は柔らかく、しばし時を忘れて聴き入ってしまうほどの魅力を持っていた。 
(……) 
 演奏が終わる。 
 ズカズカと階段を下りる音が耳に障る。 
(もう。せっかく浸ってたのに) 
 とはいえ、演奏の最中に邪魔をされなかっただけ、マシだったかもしれない。 
 私は、机に戻ると、手早く明日の準備を済ませた。鞄も太って満足そうだ。 
(さて、予想以上に時間が余ってしまった) 
 自室の壁掛け時計は、五時のちょっと手前を示している。普段なら、美術室でパレットを広げている時間帯だ。 
(どうせ、部活に行ってたとしても、無駄に時間を過ごしてたと思うから、今日はこの時間を活用しましょう) 
 少しだけ右手がうずいていたが、気づかないふりをすることにした。 
(そうだ。たまには本屋で立ち読みでもしてこよう) 
 私の女子高生らしい趣味といえば、これくらいしかない。パソコンがあれば、ケータイでメールする気分にはならないし、ファッションよりは安売りの方が気になる女だ。 
 気持ちが変わらないうちに、私は財布を持って、外に出かけることにした。
  
 私は、最近できたばかりの、大型チェーンの本屋に行くことにした。なにやら、新規会員募集とかで、割引を行うような折り込みチラシが入ってきたのを覚えているからだ。 
 自転車に乗って、学校の正反対を目指す。この道路は馴染みの画材店に行くときに使う道でもある。幅が広くて走りやすいが、車が多くてうるさい。 
 排気ガスと戯れること十五分。私は、目的地に到着すると、自転車を駐輪して、さっそく店内に入った。 
 中は、本棚を仕切りに使った構造で、店内をうまく活用した種類わけがしてある。入り口付近には、週刊誌や子供向けの本が置かれ、奥に進むほど、辞書や参考書といった、単価の高い本が並べられている。割と明るい感じの店だと思った。 
 私は、漫画の単行本が置かれているコーナーに足を進める。棚に陳列された本にはビニールで包装が施されているが、サービスで中身の読める本も一冊だけ置いてある。 
 私は、その漫画を手に取ると、ぱらぱらとページを捲り始めた。 
(あっ、手塚治虫だ) 
 最近になって、昔の良作を復刻版として再発行するケースが増えていると聞いたが、まさか、手塚治虫に会えるとは思っていなかった。 
(お父さんも、子供の頃に読んだことあるかも) 
 思わず、笑みを浮かべる。 
 内容もほどほどに、漫画を棚に戻して、次のコーナーを目指す。 
 参考書、小説、趣味園芸、週刊誌、パソコン、飼育、…、…、数え切れないほどのコーナーがあった。さすが、大手チェーン店。 
 店内を回り終えた私は、小説のコーナーに落ち着いて、新刊に目を通すことにした。 
 とはいえ、一冊読み終わるまで店内にいては、ブラックリストに登録されてしまう。あらましを掴んでは、次の新刊へと、つばをつけるような読み方をする。 
 私は、すべてを読み終えたが、それほど多くの時間をつぶすことはできなかった。 
(もう読む本はないし、画材店にでも行こうかしら) 
 ここから自転車を五分も漕げば、馴染みの画材店まで行ける。ついでだし、私は画材店にも寄ることにした。
  
 一見すると駄菓子屋にも見えるが、ここは画材店である。先代のおじいさんから店を継いだ、四十代半ばのお母さんが現在は店長をしている。本人も油絵をしていると聞いたことがあるが、先代のおじいさんに比べると、遊びみたいなものだと前に話していた。もちろん、ボロボロの建物だけど、品物はちゃんとしたものを売っている。 
「ん?」 
「どうして、ここに…」 
 画材店の中には、制服姿の幹也がいた。両手には、絵の具を持っている。 
「どうしてって、絵の具買いに。お前も?」 
「いや、あたしは本屋に寄ったついでに」 
「ふーん」 
 幹也は、絵の具を商品棚に戻す。 
「せっかく部活休んだのに、絵の具少なくなってるの思い出して、きちまった。我ながら、悲しい性だと思ってる」 
 やっぱり、幹也は絵に対する情熱が、すごいと思う。私は所詮、家に帰って、時間が余って、本屋に寄ったついでの画材店だ。 
「もう用事済んだから帰るけど、お前はどうすんの。なんなら、送るけど」 
 送るっていっても、帰る方向がまったく同じなのだから、ついでみたいなものだ。たぶん、私の安全対策よりは、話し相手が欲しいからだと思う。 
「えっと、じゃあ帰る」 
 幹也と一緒なら、私も暇がつぶせる。断る理由はなかった。
  
 私と幹也は、ゆっくりと自転車を押しながら、夕暮れの道路を歩いている。 
「それにしても、絵が描けないってつらいよな。なんで、描けなくなるんだろ。普段なら、何も考えないで描いてるつもりなのに」 
「あたしの場合は、作品を満足することができないの。いつもなら、これで完成って感じなのに、まだ完成じゃない気がして」 
 通り過ぎる民家の塀に、二人分の車輪と、二人分の影が映る。 
「完成じゃない気がするか。俺の場合は、普通に失敗しちゃった感じなんだけどな。でも、自分の作品を評価できない点は同じ」 
「そうね。自分の作品が評価できないのよ。たぶん、傑作だとは思うけど、全然ダメかもしんない。不安なのよね」 
「うーん。確かに不安だな。コンクールとか以前に、不安で堪らない。なんだか、衝動的に作品を壊したい時もある。でも、それができないから、キツイんだよな」 
「うん、分かる。でも、絵を描くことは止められない。本当に不思議。そんな星の下に生まれちゃったのかもね」 
「ああ、俺たち絵描き星人だよ。きっと」 
 幹也とは、毎回こんな話しをしている。私が美術のことを話せるのは幹也くらい。たぶん、幹也も美術のことを話せるのは、私くらいだと思う。パートナーといえば、パートナーかもしれない。 
 突然、幹也が盛大にくしゃみをした。 
「あー。うわさされたかな」 
「バカ。風邪じゃないの?」 
「言われてみると、今朝から頭が冴えなかった。風邪かも。やべ」 
 病は気からと言うもので、風邪かなと思った幹也は、鼻水がでてきたのか、ポケットからティッシュを取り出して、鼻をかんだ。 
「ほらほら、もういいから、自転車乗って、帰んなさい」 
 幹也は、ティッシュをしまうと、鼻をグジュグジュさせた。 
「ああ。バカは風邪ひかないって言うけど、お前も気をつけろよ」 
 幹也は、自転車に乗ると、道路を突っ走って、遥か前方に消えていった。 
(カワイクナイヤツ) 
 私も自転車に乗ると、自宅を目指した。
  
 夕暮れも終わりを告げ、電柱に明かりが灯り始める時刻になった。薄暗い夜空を見上げると、今日は満月だった。私は、その輝きがとても幻想的に想えて、思わず心の中でため息をついてしまった。 
(私も、あんな月を題材にした絵を描けばよかったわ。こんなに素敵な手本がここにあるんだから、きっと苦労せずに描けたはず) 
 とはいえ、恨んでも今描かなければいけないのは、コンクールに送る、あの絵だと分かっている。筆を持っても先が描けない、あの絵。完成しているように見えても、何か物足りない感じがする、あの絵。 
 逃げたいと思っても、あの満月のように追いかけてくるから、逃げることもできない。それに、諦めるのはいやだ。だから、描いているようなもの。 
 でも、こんなにつらい思いをしても、絵を描くことは止められない。幹也が言っていたように、悲しい性だと思う。 
(今日は疲れたから、早めに休もう。そのためにも、早く家に帰ろう) 
 私は、満月にさよならを言うと、自転車を飛ばして、自宅に戻った。
  
 私は、自宅が見える通りまで帰ってきた。すでに外は暗く、どこの家にも明かりが灯っている。 
 でも、様子がおかしい。自分の家には明かりが灯っていないのだ。 
(留守?おかしいな) 
 私は自転車を車庫にしまうと、玄関のドアを開けた。電気はついてない。 
 私は、手探りで玄関の明かりをつけた。 
「ただいま」 
 返事がしない。聞こえなかっただけかもしれない。 
「ただいま!」 
 私は、闇に目を凝らして、奥を見た。リビングからは、人の気配が伝わってこない。 
(留守なのかしら…。どうして) 
 いつもなら、テーブルに夕食が並んでいる時間帯だ。どうしても、母と弟が留守をしている理由が思い浮かばない。 
 私は、靴を脱いで玄関にあがり、廊下を歩いて、リビングを目指した。 
 ドアを開けると、金属が擦れるような音がした。それだけ静か。こんな音は、映画の中でしか聞いたことがない。 
 私は、リビングに明かりをつける。 
 奥のキッチンには、夕飯の支度の途中だったと思われる、材料と器が並んでいた。にんじんも、皮むきの途中で放置されている。 
 玄関のドアが開いて、人が入ってきた。 
「オネエ、帰ってきてるか!」 
 弟の声だ。私は玄関まで走る。 
「一体、どうしたのよ!」 
「ああ。親父が病院に運ばれたんだ。だから、オネエを迎えに…」 
「お父さんが病院に!」 
 驚いてしまった。よほど重大なことだと思った。癌かもしれない。死んじゃう! 
 弟は、片方の耳を塞ぎながら、答えた。 
「そんな大声だすなよ。別にただの過労だよ。過労。ベッドに寝転んで、点滴受けてりゃ治るし」 
 過労ほど怖いものはない。過労が原因で重病を患うことはよくある。大変! 
「と、とりあえず、早く連れてって!」 
 弟は、ため息をついてから、自転車で私を先導しながら、病院を目指した。
  
 病院はすぐ近くにある。自転車を使えば、二十分もしないうちに到着する距離だ。ここ辺りは昔から住宅地だったため、病院の誘致もしやすかったんだろう。 
 病院の中は、やけに明るくて、夕飯時だというのに、大勢の人がいた。病院独特の消毒液のにおいもする。 
 私は、弟に連れられて、一階の病室に入った。 
「お父さん!」 
 病室の中には、白いベッドに上着を脱いだ姿で横たわる父と、その横で丸いパイプ椅子に座る、母の姿があった。父の腕には点滴用の管が刺さっている。 
 父と母が、私に気づいて顔を向ける。 
「葵」 
 そう言うと、父は目を閉じた。 
「過労って聞いたけど…」 
 その問いには、母が答えた。 
「あと一時間も休めば、よくなるって、先生が言ってたわ。安心して」 
 よく考えると、過労は病気じゃない。疲れで倒れてしまうのが、過労。原因は、働き過ぎや、頑張り過ぎにある。父は、そんなになるまで、どうして頑張ったんだろう。 
「どうして、どうして倒れるまで!」 
 父は、目を開けようとしない。 
「お父さんは、私たちのために頑張って、こうなったの。責めないであげて」 
 母はそう言うけど、納得できない。でも、ベッドに横たわる父を見ると、これ以上、責めることはできなかった。 
 私は、近くから丸いパイプ椅子を借りて、父の傍に座った。弟も同じように、丸いパイプ椅子を取り出して座る。 
 少し、沈黙した。 
「葵、護」 
 父が、語りかけてきた。 
「明日、学校だろ。早く帰りなさい。お父さんも、一時間もしたら、お母さんと一緒に帰るから」 
 私は、父のことが心配だ。できることなら、ずっと近くにいたい。 
「わたし、ここにいる」 
 それが私の願いだった。 
 でも、父は許してくれなかった。 
「ここにいても疲れるだけだ。夕飯もまだだろ。心配しなくていいから、帰りなさい」 
 弟はパイプ椅子から立ち上がった。 
 私は、まだ食いつく。 
「心配するなっていわれても!」 
 母が、口を開いた。 
「お母さんがついているから大丈夫よ。あなたは、心配しなくてもいいの。明日の学校のことを考えなさい。ね」 
 親の気持ちは分からない。娘が父親を心配しちゃいけないとでも言うの? 
 でも、これ以上は逆らえないと思った。私の心配は、過剰な迷惑だと思われたのかもしれない。それじゃ、本末転倒だから。 
「……」 
 私は、黙って椅子から立ち上がると、病室を後にした。弟が後ろからついてくる。 
 廊下を歩いて、ホールを抜けて、玄関の大きな自動ドアから、外に出る。 
 風が強かった。外は相変わらず真っ暗。気温も下がって、肌寒いと感じる。 
「護…」 
「何?」 
「わたし、まちがったことした?」 
「全然」 
 それを聞くと、私は自転車に乗って、一目散に自宅を目指した。
  
 家に帰った私は、夕飯の準備をした。大したものは作れないけど、これくらいしか役に立てないと思ったから。 
 でも、冷静に考えてみると、あの場にいたら、こうやって夕飯の準備をすることもできなかった。何の役にも立てなかったんだ。むしろ、邪魔だったかもしれない。 
 弟が、夕飯を食べている間に、私はお風呂を沸かした。今度は失敗しない。溢れないように、ずっと見張っていたから。 
(私がお父さんのためにできることは、夕飯の準備と、お風呂を沸かすことと、家に帰ること…) 
 私のやり方でできることがしたいのに。 
 切なかった。 
 私は、蛇口から流れ出るお湯を止めた。すると、どこからかギターの音が聞こえてくるのに気づいた。 
 私は、音を追って歩く。すると、我が家のリビングに辿り着いた。 
 弟が、ギターを演奏している。紛れもなく、今日聞こえてきたメロディー。 
(いつの間に、こんなに上手になったんだろう…) 
 数ヶ月前までは騒音にしか聞こえなかった弟のギター。驚いた。 
「オネエ、この曲知ってる?」 
 弟が、ギターを弾きながら、話しかける。 
「イマジン。お母さんが好きな曲」 
 弟は、演奏を止めると、ギターを置いた。 
「次のメロディー。わかる?」 
「うん」 
 私の頭の中には、手に取るように次のメロディーが流れている。名曲だから、知らないことはない。 
「じゃあ、タイトルの意味は?」 
 イマジン。習わない英単語。私は首を振る。 
「想像するって意味。イメージンね」 
「あ、なるほど」 
「俺、この曲好きだよ。歌詞が」 
 そう言うと、弟はギターを片手に和訳でイマジンを歌い始めた。 
 私は、生まれて初めて、イマジンの歌詞の意味を、深さを知った。 
「母さんが好きだって言ってた。この歌詞。いろんなこと想像してみろって。天国も、地獄も、貧富も、平和も、人間も」 
 弟は、少しうつむいた。 
「俺、オネエの気持ち分かるつもりだよ。親父のことが心配なんだろ。でも俺、ほんの少しだけだけど、親父の気持ちも分からないでもないから…」 
 弟は、ギターを置くと、少し黙った。 
「きっと、あんな姿を娘に見せるのが、父親として恥ずかしかったんだと思う。だから、帰れって。でも、本気でそうじゃなくて、許してほしかったから…。その、心配させたことを許して欲しかったから。親父は、ここにいても疲れるから帰れって…、そう言ったんだと思う」 
 もしかしたら、私は父に気を使わせたのかもしれない。でも…。 
「だから、それがどうしたのよ。人を心配させておいて…。こんなことで許してもらえると思っているの」 
 私の目に、涙が溜まっていく。 
「そもそも、倒れるまで働いてどうするのよ。それが家族のためだって言い訳するの?こんなに心配させて…」 
 声が震えて、うまく発音できない。 
「わたし、許さないから!」 
 ついに涙が零れ落ちてしまった。慌てて、それを手で拭って、なかったことにする。 
 弟は、じっと私を見つめている。こんなに父を責めてしまったから、軽蔑されたかもしれない。 
 私だって、本当は父のことを責められる立場じゃないって分かっている。でも、つい言葉がでてしまう。分かっていても、言葉がでてしまうのだ。分かってるのに…。 
 弟が、ゆっくりと口を開く。 
「オネエの気持ち、分かってる。それでも、言いたかっただけだから…」 
 そう言い残すと、弟はギターを持って、二階に上がっていった。 
 私は、ゆっくりとテーブルについて、自分で作った夕飯をひとりで食べ始める。 
 弟には、私の気持ちを本当の意味で理解できたとは思えなかった。だって、弟は男の子だから。でも、結論は一緒だったと思う。要するに、父が悪いと…。 
 父は悪いだろう。家族をこんなに心配させたんだ。でも、単純に悪いとはいえない。それも分かる。結局は、私たちのために頑張って、倒れてしまったんだ。 
 でも、私はそこが許せなかったんだ。私たちを思うなら、父には倒れるまで頑張って欲しくなかった。父の健康を犠牲にしてまでも、私は生きていたいとは思わない。 
 私は、父のことが心配。今は父のことしか考えられない。これだけ父を思っている。でも、この想いは伝わっていないのかもしれない。伝わらないのかもしれない。 
(親子なのに…) 
 私は、夕飯を済ますと、二階の自室で早めに眠ることにした。 
 なんだか、父とは会いたくなかったから。
  
 翌日になった。リビングに下りる。父はもう会社に出勤しているだろう。母が朝食を作っている。テーブルに座る。新聞を読む。父と出会うことはない。 
 改めて考えると、私生活で父と出会うのは、夜の数時間だけ。すでに単身赴任してるのと変わらない。私はここ数日間、何を動揺していたのだろうか。 
 朝食を済ませて、学校に行く。繰り返すような日常生活。きっと、今日の夕方も美術室で絵筆を握っているだろう。まるで物語が始まりに戻ったような感覚。そういえば、私はスランプで絵が描けなくなっていたんだ。 
 学校に着いて、自転車を止めて、校舎に入って、教室に入って、出席を取って、休み時間には友達とおしゃべりして、授業を受けて、それを何回か繰り返して、昼休みにはお弁当を食べて、午後の授業はちょっと眠くて、六時間目が終わるとホームルームが始まって、連絡事項が伝えられて、解散して、放課後がやってきて、教科書を鞄にしまって、画材を持って、美術室に行って…。 
 繰り返すような日常に、終わりはやってこない。明日の今日は昨日で、今日の昨日は明日かもしれない。 
 終わってしまえば楽なのに…。
  
 終わりの予兆は、向こうからやってきた。 
「三条」 
 いつとも分からぬ今日、美術部顧問の安藤先生に声をかけられた。 
「三条。コンクールの受付、今週の日曜日までだ。それを過ぎたら、今回のコンクールは見送ることになる。先生としては、その未完成の作品でも出展するだけの価値はあると思う。でも、三条がイヤだというなら、出展はしない。どっちにしろ、まだ時間はある。未完成のまま送るか、今回は諦めるか、考えてみなさい。まあ完成すれば万歳だけどな」 
 また、いつとも分からぬ今日、キッチンで母に話しかけられた。 
「お父さん、単身赴任の日付が決まったって。来週の土曜日。それを過ぎたら、お父さんとは当分、土日しか会えなくなるわね」 
 終わりは、鮮やかに、同時にやってきた。
  
 まるで、いつとも分からぬ夜明け。ベッドから起きて、朝食を取って、学校に行く。ちょっとだけ違うのは、今日は珍しく雨が降っているということだけ。 
 ザーザーと振りしきる雨。傘がなければ、外に出られそうもない。 
 朝食を食べて、傘を持って、自宅から外に出る。水が跳ねてイヤだなあ。 
 自転車に乗って、風を押しのけながら、前に進む。傘を開いた隙間から、容赦なく雨水が飛んでくる。 
 雨は濡れるからイヤだ。早くやんで欲しい。自分でどうにかできるもんじゃないから、なおさらイヤだ。神様どうにかして。 
 学校の校舎に入る。屋根のある建物って、ありがたいと感じた。雨を避けることができるから。 
 時間が経てば、雨はやむ。イヤなことは回避して生きればいい。父も絵も。 
 悲しいことだけど、時間は鮮やかにすべてを解決してくれる。時間が経てば、すべては終わる。ジカンガタテバ。 
 苦しかった今日も、悲しかった昨日も、痛かったあの日も、すべて忘れ、なかったことにしてくれる。 
 苦労も努力も水泡が弾けるように無駄に終わり、結果は残らず、いずれ忘れる。 
 忘れるために時は動く。
  
 でもイヤだよね。そんなの。
  
 私は、画材道具を広げ、美術用のエプロンを身に纏い、未完成のキャンバスから、目隠しを外す。 
 目隠しを外したんだ。 
 そして、私は作品から目を逸らさないように、じっと全体を見つめる。 
 薄々、勘付いていた。 
 これは「イヴ・クライン」の物まねにしか過ぎないんだ。 
 どんなに頑張っても、私の青は、イヴのような本質的な魅力を放つことができなかったんだ。誰かの心に微風を吹かせることができないんだ。 
 だから、逃げていた。 
 ただ青く塗り潰されただけのキャンバス。こんな絵でも、コンクールで賞を取ることは可能だろう。でも、それを私は許さない。 
(イヴの青を目指すのはやめよう。今の私にできることは…) 
 パレットから緑を取って、キャンバスに線を描く。繊細な構図をぶち壊す、荒々しい線だ。 
(この絵に足りないのは、私らしさ) 
 赤や、黄や、紫や、様々な色を散りばめる。徐々に作品が子供のお絵描きになっていく。 
(ここに、あの満月を描いてしまおう) 
 私は、この絵にあの日の満月を描くことにした。幹也と一緒に帰った日に、心を奪われたあの満月を。 
 私は暴走しているのだろうか? 
 あれだけ動かなかった絵筆が、まるで生き物のようにキャンバスの上を走る。 
 いつしか、作品は作品と呼べなくなるまで破壊し尽くされ、あとに残ったのは、子供のお絵描き程度のものだった。 
「おうおう」 
 幹也が、後ろからキャンバスを覗き込んできた。 
「派手にやっちまったな」 
 幹也は、すごく良い笑顔でそう言った。 
「やっちまったのよ」 
 私も笑顔だった。やっと吹っ切れた感じ。 
 私は三度目のコンクールを逃さんとするあまり、私を忘れて、審査員とか、大人を喜ばすためだけの絵を描いてしまったんだ。 
 それを教えてくれたのは、他ならぬさっきまでご存命だった、私の作品だった。 
「これで完成か?タイトルは」 
「そうね。『私らしく青の世界』ってどう?傑作でしょう」 
「ああ、傑作だよ。今世紀最強だ!」 
「今世紀って、始まったばかりじゃない」 
 私と幹也は、声を揃えて笑った。
  
 そのあと、私は安藤先生にコンクールへの出展を辞退することを話した。 
 それでも、と言うから見せた子供のお絵描きは、安藤先生に少なからずショックを与えたようだった。
  
 私は、あの絵から多くを学んだ。それを活かすためにも…。 
「私も美大目指そっかな」 
 夕暮れの坂道が、車輪と幹也の影を引き伸ばしている。 
「行け行け。やっぱ、お前才能あるもん」 
 私は幹也に近づいて、歩幅を合わせる。 
「アンタもついてこないとダメだからね。あの絵の良さが分かったの、幹也だけだったもん」 
 幹也は、片手を自転車から離して、頭を掻いた。 
「まあ、行けたらな」 
「そっけない返事ですこと」 
 私は歩幅を広げて、幹也より先に出る。 
「だって、俺才能ねーもん」 
 幹也はすぐに追いついてきた。 
 私は立ち止まって、幹也を先に出す。 
「でも、続けるんでしょ?」 
 幹也は、後ろを振り向いて、私の顔を見ている。 
「おう」 
 そう言うと、幹也は私を置いて、歩き出した。私もまた幹也に追いついて、歩幅を合わせる。 
「私たち、おじいさんとおばあさんになっても、おんなじことやってるかもね」 
「ん?」 
 何を考えたのか、幹也の顔が少し赤くなっている。夕焼けの茜色が映っているだけかもしれないが。 
「べーつに」 
 二つの車輪はカタカタと、二人分の音たてながら、同じ道をゆく。 
「あっ、俺、用事思い出した」 
「用事用事って、あんた忙しいわね」 
 幹也は、ケタケタと笑っている。 
「まあ、忙しいうちが華だ。そんじゃ」 
 そう言い残すと、またもや坂道を滑走しなら去っていった。 
(今朝、雨降った後だから、転ばなければいいけど…) 
 まあ、転んでも立ち上がればいいだけだ。幹也には、そういう才能があるんだから、私よりも先に行けばいい。 
 うわさで聞いたんだ。毎日、運動部の練習を夜になるまで影でスケッチしてる男子がいるって。 
 きっと、その男は、人をナンセンスと言って一緒に部活を休むくせに、美術にことしか頭に入ってないような人間だと思う。 
(どっちがナンセンスなんだか) 
 私は、ある男を思い浮かべて、鼻で笑ってやった。 
 夕焼けが、坂道に長い長い影を作る。果ては見えないけど、見てみたいと思う。上がったり、下ったり、大変そうだけど、二人一緒なら、さほど苦ではなさそうだ。
  
 私は、もうひとつの仕事を終えるために、画材店に向かった。 
 そこで、安くて丈夫な紙と、美術部に入ってから使うことのなくなった色鉛筆を買って、家に帰った。 
 よく考えると、私が父のためにできることなんて、絵を描くことしかなかった。 
 自分の机に座って、私は絵を描き始める。 
 できれば、この筆に思いを込めて、私の気持ちを父に伝えたい。話しをしたいこと、心配した気持ち、なんでもいいから、父に伝えたいんだ。 
 私は、写真を見て、父の似顔絵を描いてみることにした。ちょっと恥ずかしいが。 
 筆が止まる。 
 考えてみれば、父の似顔絵を描いたところで、何か伝わることがあるだろうか? 
 私には、絵で何かを伝えるほどの才能はなかったはずだ。それは、さっき実証された。 
(それでも…) 
 無理にでも筆を動かして、父の写真を紙に写す。 
(ダメだ) 
 私は、その描きかけの似顔絵を、破いてゴミ箱に捨てた。 
 これでは、写真を紙に写しているだけだ。こんなことでは、似顔絵として成立するわけがない。現に今破かれた作品は、父の顔を映しただけの紙にしか過ぎなかった。 
 今なら、ほんの少しわかる気がする。本当の意味での美術が。イヴが目指したような、本質的なものの輝きを描く絵が。 
(気持ちを込める…) 
 今までの私は、多くを悩むことはなかった。適当ではないが、それなりに時間をかけて丹念に仕上げた絵。それで多くのコンクールでは入選することができた。でも、これからは、私自身が納得する絵を描くんだ。 
 じゃあ、写真に写った父を模写することが、私が納得する美術なのだろうか。 
(本当のお父さんを描きたい) 
 そう。私が求めた美術は、そこに行き着いた。そこにいる父を、私は描きたいんだ。 
 そのためには、何をすればいいだろう。父にモデルになってもらえばいいのだが…。 
 それでは、話しが元に戻ってしまう。私は、気持ちを伝えたくて絵を描こうとしているのに、私が今描きたいのは、気持ちが伝わった父の姿だ。 
 待て。何かがおかしくなっていないか。私は絵を描きたいんじゃなくて、父に私の気持ちを伝えたかったはずだ。そのための手段として絵を考えていたはずだが、そっちがメインになってしまっている。 
 じゃあ、私はどうして父に気持ちが通じてないと思っているんだ。 
(あっ…) 
 私は、自分の本心に気づいてしまった。 
(私、お父さんと話ししようとしてないんだ) 
 そうだった。話したいことはあるはずなのに、話題がないといって、父から逃げていたのは、紛れもなく私だ。 
 ギクシャクしない関係といって、本当のギクシャクから逃げていたのも、私だ。 
 住む世界が違うと強引な理由をつけて、諦めようとしていたのも、私だ。 
 あまつさえ、絵で気持ちが伝われば楽だと思っていたのも、私だ。 
 元凶は自分の中にいた。 
(これじゃ、心配した気持ちも伝わらなくて当然だ。都合が良過ぎる) 
 私が、あの絵から学んだことは、真実から逃げないで立ち向かうことだった。 
(気持ちを伝えるために、美術はいらない。人間の私は、言葉で気持ちを伝えよう) 
 私は、筆を置いた。
  
 深呼吸する。 
「どうしたの。そんなに緊張しちゃって」 
 夕飯の後片付けをしながら、母が話しかけてきた。 
「お父さんと、話ししようと思って」 
 母は、驚いたようだった。だが、すぐに笑った。 
「そんな、親子なんだから、緊張しなくたっていいでしょ。でも、お父さん喜ぶわよ。影では、葵が話ししてくれないって、いっつもぼやいてるんだから」 
 私は、テーブルに頭をつけて、父の帰りを待つ。そうか。父はそう思っていたのか。 
 自動車のエンジン音がした。私は出迎えるために、玄関を目指す。 
 ぎーっと、玄関のドアが開いて、背広姿で鞄を持った父が帰ってきた。 
「おかえり」 
 玄関で待っていた私に声をかけられて、父は驚いたようだ。冷静を装おうとしてるのがバレバレ。こんな表情は見たことがない。 
「ん、ただいま」 
 父は、私に背を向けると、座って靴を脱ぎ始めた。 
「ねえ」 
「どうした」 
「お風呂あがりでいいから、話ししたいんだけど、大丈夫」 
「わかった」 
 私は、少しだけ手に汗をかいていた。
  
 父が風呂に入っている間、私は何を話そうか、考えた。 
 言葉で相手に気持ちを伝える。これも案外難しいことだから。 
 でも、私は私の気持ちを父に伝えるだけでいいのだろうか。場合によっては、それがマイナスになることもありえる。 
 私は…。
  
 父がテーブルについた。結局、考えても何を話そうか思い浮かばなかった。 
 私がじっと黙っていると、父の方から話しかけてきた。 
「葵」 
 一旦、言葉を区切る。 
「すまなかったな。倒れたりして」 
 それは、思い掛けない言葉だった。 
「心配かけた」 
 父は、心からそう思っている。面と向かえば、それくらい感じられる。 
 そんな言葉をもらった私は…。 
「こっちこそ…、ごめんなさい。あんなに騒いじゃって」 
 素直に謝ってしまった。 
 それから、少し沈黙した。 
「葵」 
 また、父が話しかけてくる。 
「学校は楽しいか?」 
「あ、うん。まあまあ」 
「部活は頑張っているか?」 
「うん。毎日行ってる」 
「友達とは仲良くしているか?」 
「うん」 
「頑張り過ぎてないか?」 
「うん、大丈夫」 
「本当か?」 
「うん」 
 何故だか、父は私に対して、多くの質問を持っていた。やっぱり、私のことを思っていてくれているのかもしれない。 
「護とは仲良くしているか?」 
「うん」 
「お母さんに世話かけてないか?」 
「かけっぱなしだけど、これから挽回するつもり」 
「そうか…」 
 父は少しだけ黙った。 
「お父さん、留守中は何もしてあげられないけど、心配ごとがあったら、すぐに電話すればいいからな」 
 父は、私の手を握る。 
「葵は何も心配しなくていいんだ。お父さんはひとりでも頑張れるから」 
 父は、私の気持ちをすべて理解してくれていた。私が病院で怒った理由も、父が単身赴任して心配なことも。 
 父には勝てないと思った。 
 私は、何を考えていたのだろうか。父は私が話しかけないと答えない人間だと思っていた。そうじゃない。父は話したいことがあっても、私が話そうとしないから、それらの話題をそっと胸にしまっておいてたんだ。 
 父は、私のことを理解してくれていた。理解してなかったのは私のほうだ。 
 壁を作っていたのは、私だった。 
 私は、想像の中で、父をどんどん悪い方向に発展させていたんだ。 
 でも、実際の父は、こんなに優しくて、こんなに頼もしい。 
 だったら…。 
「お父さん。私、お父さんの似顔絵が描きたいの。モデルになってくれる?」 
 父は、ゆっくりと頷いた。 
「ああ、わかった」 
 今なら、父の似顔絵が描ける気がする。本当の意味で、気持ちがこもった似顔絵を。 
 完成した絵をみて、父は「ありがとう」と言ってくれた。 
 少しは、父のためになれたかもしれない。
  
 そして数日後、父の似顔絵は、リビングに飾られることになった。 
 それを見るたびに、私は自らの勘違いを恥じ、父親の偉大さを痛感する。 
 もしかしたら、世のお父さん方は、見ない振りをしながら、ちゃっかりと子供を見ているのかもしれない。 
 きっとそうだ。父は赴任先に行ってしまったけど、あっちで私たちのことを考えてくれているはずだ。 
 だから、私は平気。お父さんがいなくても心配じゃない。頑張ってみる。 
 それはそうと、私は美大を目指すことになった。幹也も美大を目指すって言ってくれたからだ。 
 これからも私は、私らしい美術を忘れないように筆を握るつもりだ。 
 まあ、忘れることがあっても、この父の似顔絵を見て思い出すことにしよう。
  
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