クリエーティブミュージアム

ショートショート集 「2007年8月」

作品紹介   あとがき


ひのえうま
馬淵潤子のティーガーデン
奸計お茶汲み族
我輩は蜘蛛である


     塩

「絵里子、静かにしなさい! あなたはお姉ちゃんでしょ」
 絵里子の動きがぴたりと止まった。おずおずとわたしを覗き込むように見つめると、肩をがっくり落として、部屋から出て行った。
「やってしまった」照子は心の中で猛烈に反省した。
 こうやって声を荒げることは、照子にとって珍しいことであった。下の子はよちよち歩きだし、上の子の絵里子だってまだ幼稚園に入ったばかり。主婦にとって、一番疲れが溜まる時期だろう。その点においては、世の中にごまんと声を荒げる主婦がいたっておかしくはない。
 それでも、照子は今まで声を荒げることは少なかった。それは照子が人一倍、教育熱心で、子供は声を荒げたってうまく育たないことを理解していたからだ。そのせいか、娘の絵里子はとても聞き分けのよい子に育った。
 その聞き分けのよい絵里子を、怒鳴りつけてしまったのだから、照子は強い自己嫌悪に見舞われた。他人から見れば、ちょっと疲れが溜まっているのだけのことだろう。
 下の子の勉が、積み木のおもちゃにつまずいて転び、わんわん泣き出した。
「またか…」照子は心の中で思わず、ため息をついた。
 絵里子はきっと、パパの部屋で小さくなっているだろう。勉を抱っこして泣き止ませたら、迎えに行かないと。

 夫の和男は塩からいものが好きだ。今も食卓で、さんまの塩焼きに醤油をかけて食べている。わたしが横にちょんと大根おろしをつけてやらなければ、いつか会社の健康診断でひっかかることだろう。
 絵里子はよく和男になついている。女の子は父親によくなつくというが、わたしもそうだったから、そうなんだろう。
「はい、あーん」
 和男がさんまの塩焼きをほぐして、絵里子に与えようとした。
「ちょっと待って!」
 さんまをつまんだ箸と、絵里子の開いたおくちが、そのままで止まった。
「そんな塩辛いもの、子供に与えないで下さい。あなたのさんまは特注で、あなた専用の作り方をしているんですからね!」
 和男は小さくうなったあと、さんまをひょいと自分の口に運んだ。絵里子はまだ口を開けたまま、おめめをぱちくりさせている。
 和男は口をもぐもぐさせながら、「何がそんなに気に食わないんだよ」と、不機嫌そうにわたしを見つめた。
「だって…!」
 言いたいことは山ほどあるが、照子はこの世には言ってはならないことが沢山あることをよく知っている。その口にならない思いは、頭の中はぐるぐる駆け回って、最期には、
「ごめんなさい…、わたしの不注意でした」と、口から出る。
 決して自分自身で納得して謝っているわけではない。平謝りだ。でも、その平謝りひとつで、くだならい夫婦喧嘩に発展しないのであらば、照子はそっちを取る女だった。
 夫の和男も「おれが悪かった」と、つぶやく。和男もきっと、わたしのそういった気持ちをどことなく理解して、配慮してくれているんだろう。その証拠に、これ以上空気が悪くならないよう、また絵里子の相手を始めた。今度は絵里子のさんまをほぐして、それを自分の箸で食べさせてやっている。
「塩辛くておいしい」と、絵里子は言うのである。
 この調子だと、絵里子の健康診断の心配もしなくてはならない。それに塩辛党が下の勉にまで遺伝して、わたしひとりが取り残されるなんて、あってはならないことだ。離乳食にちょっと砂糖をまぜてしまおうかしら?

 翌日、和男は出張だった。それにもかかわらず、わたしに一言もかけないで眠ってしまったものだから、和男は寝坊することになってしまった。和男は慌しく部屋の中を駆け回り、着替えやらを旅行鞄に詰め込んでいる。
 和男には、ちょっと神経質なところがあって、整理整頓、荷詰めの類は、自分でやらなければ気が済まないのだ。だから和男の部屋は掃除機だけはかけるが、そこにあるものに手をふれてはいけない決まりになっている。新婚当初、ものが1センチずれていただけで、詰問されたことがある。
 そんな和男は、化学薬品の会社に勤めている。昔から理系の成績が優秀で、危険物取り扱いの資格を取ってから、それを活かすため、薬品研究の道に進んだんだとか。あまり仕事のことは話さない夫なので、よくは知らないが、危険な薬物を棚から降ろしたり、保存状態を確認したり、そんなことをやっているんだろう。
 ばたんとドアが開いて、和男が現れた。
「なあ照子、そういえば絵里子の誕生日プレゼントまだだったよな。昨日約束したんだよ、絵里子と。でもおれ、時間ないから出張先で買ってこようとおもうんだけど」
 あまりに早口で話すものだから、照子は一瞬思考が止まってしまったが、この取り決めはどうやらわたしとは関係のないところですでに決定しているようなので、「それでいいんじゃないかしら」と、一言付け加えてやった。
 それから間もなく、大急ぎで和男は家を出発した。部屋を片付ける暇はなかったと見え、「帰ってから片付けるから」と、言っていた。現に和男の部屋は、服が床に散らばっているし、読書用に持参したであろう本棚の本もベッドの上にだいぶ散らばっている。
 照子は、まあ自分で片付けるのがあのひとのいいところだからと、ドアを閉めると、知らん顔になった。

 それから、絵里子を幼稚園に送って、家事万般をこなし、勉がお昼寝した頃、照子はふと絵里子の誕生日プレゼントのことを考えた。
「あの子、何が欲しいのかしら」
 くまのぬいぐるみはあるし、リカちゃんもハウスと一緒に持ってるし、女の子のほしいものは、大体持っているはずだ。
 そういえば最近、絵里子しきりに「パパと一緒がいい」と、言うようになった。もしかしたら、パパとおそろいのものが欲しいのかもしれない。ペアルックのTシャツ? まさかそんなばかな。
 和男は出張先で買ってくるといっていた。もしかしたら、出張先でしか買えないものかしら? 和夫はたしか2〜3日前に「出張で宮城にいくことになった」と、こぼすように言っていた。宮城県といえば仙台か、気仙沼か、わたしにはそのふたつしか浮かばない。
 そもそも他所でしか売っていないものを、絵里子が知っているはずないか。きっと、全国チェーンのデパートで、おもちゃを買ってくるのだろう。
 でも、そういった相談を、母親に持ちかけてくれないのは、ちょっとさみしい気がする。
 勉がぐずりだした。
「はいはい、あなたはご飯がほしいのよね」
 赤ちゃんは素直なのに、五歳くらいになると隠すところができてくるのかしらねえ。

 またやってしまった。分かってはいるけど、やってしまうのだ。
「絵里子、静かにしなさい! あなたはお姉ちゃんでしょ」
 絵里子はそんなにうるさい子ではない。ただ、わたしのまわりをひっついて、うろうろして、それがどうも気になるのだ。
 時すでに遅し。絵里子はまたパパの部屋で小さくなっていることだろう。
 人一倍、教育熱心な照子は、幼児の感情の推移についてもよく知っている。
 この場合、勉が照子を独占して、それがつまらなくて、構ってほしくて、まわりをうろつくのだ。悪いケースだと、下の子をいじめることもあるのだとか。
 親の理論は、決して子に通用しない。親が下の子に手がかかるからといって、上の子をないがしろにするようなことがあってはいけない。上の子からしてみれば、ただのえらい迷惑に過ぎないのだから。
 それだけ分かっていても、実践することのなんと難しいことか。
 しかし、人一倍、教育熱心な照子は、リカバリーの大切さを知っている。
 あとで迎えにいって、ちゃんとママが悪かったっていえば、子供純粋だから、許してくれるのよね。
 でも最近、絵里子の株が夫の和男に移っていることは、紛れもない事実だ。やっぱり、世話やきでも怒るママは、たまに帰ってくるだけのパパに、勝てないのだろう。なんだか、この世の不条理を感じずにはいられない。

「ただいまー、ほら絵里子、誕生日プレゼント買ってきたぞ!」
 今夜の魚焼きグリルは大回転だった。もくもくけむりがでるし、あとの掃除が大変だけど、あんなに笑ったのは久しぶりだから、今日は許すとしよう。
 和男が絵里子の誕生日プレゼントに買ってきたのは、なんと気仙沼産の新鮮なさんまだった。宮城県気仙沼はさんまの漁獲量が日本一なのだとか。
 買ってきたのは四尾。まさか、勉にも食べさせる気じゃないとか聞いたら、夫は知らん顔で口笛を吹いていた。やはり、塩辛党を増やすための計画は着実に進んでいたらしい。
 絵里子がキッチンに入ってきた。
「塩かけるのまって。パパの塩かける」
 そういうと、さんまの乗った皿を持って、絵里子はどこかへ行ってしまった。
 パパの塩? あのひとはそんな塩なんか持っていたかしら。
「きゃ!」
 絵里子の短い悲鳴が聞こえた。わたしと和男はその声が聞こえた先、和男の寝室へと、駆け込んだ。
「どうしたの、絵里子ちゃん!」
「パパの塩…」
 絵里子は瓶を持っていた。その瓶は茶色っぽく透明で、そう、薬品の入っている瓶そのものだった。
 和男の顔が凍りつく。絵里子からその瓶を取り上げると、ラベルを確認した。
「塩酸…」
 絵里子は皿の上のさんまを見つめる。あれが溶けるというのだろうか。強烈な酸のにおいがする。
 和男が絵里子の体をてきぱきと検査する。緊張で歯はがちがち鳴っているが、きわめて冷静で、無駄のない動作だった。
 どうやら、絵里子に塩酸はかかってないようだ。
 和男は塩酸に蓋をすると、真っ青な顔で、つぶやくように言った。
「数日前、先輩から預かってくれって、薬品の鞄を渡されたんだ。中身はオキシドールだといっていたのに」
 そのあとの説明で、危険物も取り扱いが慣れてくると、いいかげんになってきて、こういうこともあるのだと、夫は話してくれた。
 なにはともあれ、絵里子が無事でよかった。


▲ ページ最上段へジャンプ ▲

コピーライト