クリエーティブミュージアム

ショートショート集 「2007年8月」

作品紹介   あとがき


ひのえうま
馬淵潤子のティーガーデン
奸計お茶汲み族
我輩は蜘蛛である


     奸計お茶汲み族

 陰陽相対理論によれば、万物は陰と陽に分かれる。
 陽とは表であり、男性のことを指す。
 陰とは裏であり、女性のことを指す。
 もしあなたが女性で、男社会から受ける悩みをかかえているのなら、こんな迷信を信じてみるのも悪くはない。
 ほら、あなたの会社の一階の女子トイレの清掃用具入れを開いてみなさい。
 牛頭馬頭の六道護符が張ってあったら、とても幸運なことです。

 榊紀子は、会社ではさかきちゃんと呼ばれていた。
 新卒派遣の彼女は、庶務雑用係である。
 若くて可愛らしい彼女は、もっぱらフロアの花であった。
 とげのあるおすまし薔薇ではなく、どこにでも顔を向けるにっこり向日葵である。
 しかし、そんな彼女にも苦手な上司がいた。
 課長の今村である。
 今村は毎朝一番に出社してくるタイプである。課長のくせに主体性に乏しく、地味で、若い女子社員からみたら「くたびれたおっさん」であった。
 権力をかざしたり、うるさ過ぎるよりはいいかな、と紀子も当初は思っていた。
 しかしこの今村は、お茶を持っていくと必ず手を触るのである。
 初めて手が触れたとき、紀子は苦笑したが、大したことではないと思っていた。
 しかし、これが常習性を帯びてくると、大問題である。
 そう思うと不思議で、紀子は今村から常に視線を感じていることに気がついた。
 ちらちら、ちらりと、こっちをなめつけるように見ているのである。
 紀子は恐ろしくなった。
「ねえ、さかきちゃん。具合悪いの。顔ひきつってるよ?」
「え、ああ…、なんでも…、ないです…」
 紀子の笑顔は、日増しに薄れていった。

 そして、事件は起こった。その日の残業は、今村と一緒だった。
 いやだなぁ。と思いながらも、この書類は明日の朝一の会議で使うものなので、どうしても今日中に仕上げないといけない。
 紀子がエクセルを最速で使いこなしていたときのことである。
 かちゃかちゃと、向こう側から金属音がするのである。
 紀子はすーっと、恐る恐る今村を見た。
 なんと、今村はベルトを外そうとしているではないか!?
 体中のうぶ毛が逆立った。ヤバイ。これはもう、逃げるしかない。直感的にそう思った。
 いち、にの、さん!
 紀子は半泣きのままフロアを駆けた。髪の毛がばさばさと空を切る。
 これからどうしよう。
 また明日、会社には出勤しなきゃならないし。
 紀子は途方にくれていた。
 そんなとき思い出したのが、入社した時に先輩から教わった、ひとつの迷信であった。
 もし、男社会から受ける悩みをかかえたときは、一階の女子トイレの清掃用具入れを開けるのよ。もしそこに牛頭馬頭の六道護符が張ってあったら、裏にあなたのケータイ番号を書いておくの。わかった?

「なるほど。それはセクハラね」
 紀子は未だに目の前の女性をしげしげと観察していた。
 蝶々の仮面で顔を隠し、腕を組んで威風堂々の仁王立ち。呼ばれたのが秘書室だから、この会社の秘書の方だろうか? ハイヒールに黒のスーツがばっちり決まっている。
 昨夜、紀子は迷信を信じて牛頭馬頭の六道護符の裏に電話番号を書いておいたのである。そうしたら、今朝早くに電話がかかってきて「出社直後に秘書室にくるように」といわれたのであった。
 その秘書の方は、胸ポケットからおもむろにケータイを取り出すと、いずこかへと電話をかけた。
「ああ、もしもし、Q? 仕事。第三営業部課長の今村秀則」
 そういうと、彼女は電話を切った。
 待つこと数十秒、今度は向こうから電話がかかってきた。
「はいもしもし。うん。そう。そう。わかった」
 彼女は電話を切ると、紀子を直視した。
「あなたの上司、第三営業部課長の今村秀則には、今日中にそれなりの罰を与えておきます。あなたは特別休暇ということにしておきますから、今日は自宅待機ということで」
 そういい残すと、彼女はカツカツとハイヒールを鳴らして、奥に下がっていった。
 紀子は未だに信じることができず、呆然と立ちすくんでいた。
 社中の秘。奸計お茶汲み族の存在を。

 古代中国では、統率社会における諸事の解決こそ、最大の問題と考えていた。
 手に余る人数を統率する時、規律だけでは人間を制御することはできない。
 制御できない人間が集まることすなわち、国の衰退につながる。
 やはり、実力行使に訴える、裏の統率機関が必要であった。
 それこそ、奸計お茶汲み族の発祥である。
 古くは薬師として、新しくはお茶汲みとして、内部から不穏分子を誅滅する役割を担った裏社会の女たち。それが奸計お茶汲み族。

 伊藤は、第三営業部の榊が退出したあと、すぐに着替えて自分の部署に戻った。
 部長の斎藤がぷんぷんしている。
「いっちゃん、どこいってたんだよー」
 伊藤はニコニコしながら毎度こう答える。
「すみませーん、今すぐお茶持ってきますからー!」

 わたしはQの素顔を見たことはない。わたしはQとは電話連絡を通してしか会ったことがないからだ。だから、Qがどこの部署の誰なのか、わたしは知らない。しかし、Qはこの会社のありとあらゆる情報を握っているので、彼女はわたしのことを伊藤だと知っているはず。
 わたしは今日も電話でQと話し、罪人の運命を決める。
「話したとおり、第三営業部の今村に前科はないし、性格もいたって温厚。わたしとしては相談者の榊紀子の自傷過多だと思うんだけどね」
「でもQ。彼女が不安を感じていることは確かよ。ここで今村の暴挙を止めなければ、我が社から有能の女子派遣をひとり失うことになるわ」
「でも、派遣と課長を比べてもね。貢献度が違うわよ」
「あなた、クールなのね」
「ええ、それが取柄ですもの」
 少し会話が途切れた。
「人心における貢献度、今回のケース、ここが重要じゃないかしら」
「人心における貢献度?」
「ええ、会社の末端、ひとりひとりのモチベーションが下がるようなら、会社も危ういってことよ。例えば、有能な女子派遣がいなくなることによって、会社における精神的なダメージを計算してみなさいよ」
「わたしは精神論はきらいよ。でも…、古書にも兵馬の士気が低いばかりに、何倍の優勢を覆されたケースって、沢山あるのよね」
 Qはうーんとうなった。
「ねえ、あの女子派遣がそんなに会社に貢献しているかしら」
 伊藤は言った。
「貢献しない人材なら、雇ってなんかいないでしょう」
「わかったわ。第三営業部の今村に対して、罰を与える許可を出します。その代わり、今村は初犯、会社に対する長年の貢献度も加味して、カテゴリー1とします」
「了解」
 伊藤は電話を切ると、深呼吸した。
 そして、机から下剤を取り出すと、お茶に溶かした。
「目には目を、歯には歯を、下には下をもって誅す」
 うふふふと、なんだか楽しそうな伊藤であった。

「ご苦労さまですぅ」
 伊藤は、ひとり残業している今村にそっと近づいて、お茶をだした。もちろん、この残業命令は上からだしたものだ。
「お、君はたしかお茶汲み美人として有名な…」
「伊藤です」
 うふふと、伊藤は愛想笑いをした。
 今村は一気にお茶を飲み干した。すると、おかしなことに涙を流し始めた。
「ど、どうしたんですか!?」
「見ず知らずの君に優しくされて、つい感極まっちゃって…。じつはね。うちは女系家族なんですよ。娘も年ごろになって、もうおやじなんか消えちまえって、そんな目でわたしを見るんです。だからかな…、最近、若い女の子を見ると、甘えたくなっちゃって…、ああ、おれもおっさんになっちまったなぁ…」
 伊藤は内心ギクリとした。
「ああ、すみません、若い娘さんの前でなんなんですが…、ベルトを緩めさせてもらってよろしいですか? かちゃかちゃっと…、ふう楽になった。そんなこんなでストレスが溜まってるもんで、やけ食いしちゃうんですよ、最近」
「お、お仕事がんばってくださいねー!」
 伊藤は逃げるようにその場を去った。

 紀子は自室で震えていた。あんな怖い場所なんて、二度と行きたくない!
 そこへメールがきた。開いてみると。
「紀子さんへ。今村には罰を与えました。内々に処理しておきましたので、明日から安心して出社してください」
 そのメールを見たとたん、ぷつっと緊張の糸が切れて、紀子は泣きに泣いた。
「うわーん、よかったよー!」

 次の朝、紀子は出社したが、課長の今村はいなかった。ボードには三日間の休みと書いてある。これもあの方がやってくれたのだろう。
 不安がなくなって、紀子は以前のように明るくなっていた。
「はーい、お茶欲しいひとは手をあげてくださいねー」
 紀子の号令に、男性社員が一斉に手を上げた。
 お昼休みにふと、一階の女子トイレの清掃用具入れを開けてみたが、牛頭馬頭の六道護符は張っていなかった。そう何度も利用できるものではないらしい。
 紀子は清掃用具入れに向かって、両手を合わせてそっと拝んだ。
 それから三日後、今村が出社してきた。
 驚いたことに、彼はがりがりに痩せていた!
「いやぁ、おなか壊しちゃってねぇ。心配かけちゃったねぇ」
 いやでもしかし、痩せた今村はかなりのハンサムであった。
「寝込んでるとやっぱ娘だねぇ、心配して優しくしてくれる。帳尻合わさった感じがするよ、二宮君。あっはっは。それに、痩せたパパかっこいいって。自分でもまるで昔の写真を見ているようだよ。ほら、高橋君も一度下痢になってみたら? 娘さん、優しくなるかもよ」

 伊藤は屋上でその様子を盗聴していた。
 そっとイヤホンを外して、髪を書きあげる。
「これぞ中国四千年の妙…、なんちゃって」
 うふふと、伊藤は不敵に笑うのであった。


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