馬淵潤子のティーガーデン
そのティーガーデンに入るのは三度目だった。
閑静な住宅街の一角にある、茶色のレンガ模様の外壁のその店は、どことなく同じ趣味の人間を強く惹き寄せる独特のにおいに満ちていた。
由紀子が始めてその店に入ったのも、そのにおいに惹かれてのことだった。
その店の主、馬淵潤子は小さな庭の手入れをしているところだった。プランターの赤いゼラニウムをせっせと庭に植え替えている。
あら、と由紀子に気づいた潤子は「すみませんねぇ」と、土まみれの手をタオルで拭きながら近づいてきた。
「今、お店開けますから」
ニッコリと微笑む老女に、由紀子は同類のにおいを感じていた。
由紀子も花が好きで、プランターによく花を植える。いつからか、季節ごとの花で庭を一杯にすることが何よりの生きがいになっていた。
誘われるがまま店内に入り、おいしい紅茶を頂戴した。それで胸襟が開いてしまったのか、人見知りの由紀子には珍しく、こちらから会話を始めた。
「ゼラニウム、季節ですよね。うちもゼラニウムを植えたいと思っていたんですけど、あいにくプランターが一杯で、今年はあきらめたんです」
大きな窓から庭のゼラニウムをじーっと眺める。
「そうねぇ、うちも日本に帰ってきてから、庭が小さくて満足に花を植えられなくて困っちゃって。むこうではバラ園とか作ってみたんですけどねぇ」
振り返ると、老女はコップを目の細かいタオルで拭きながら、遠い日を見つめていた。
「あたし、イギリスに住んでいたんですけど、この年で仕事がなくなっちゃって。それにお墓は日本に入ろうって決めていたんで、前々から帰国を考えていたんですよ。そこにちょうどよく、隣の奥さんの娘さんが家族を連れて近くに住みたいって言い出して、それなら我が家はどうって、そうしたら是非にって。うちは惜しくなかったんですけれど、すっかり手入れの行き届いた庭は惜しくてねぇ、よければ日本に丸まる持ってきたかったんですけど、それじゃ、あのうちにぽっかりと"おおあな"ができちゃうでしょう? それはせっかく引っ越してきたひとに悪いとおもって。だから、名残惜しくても庭は残しておくことにしたの。でも、それだけじゃとても心配だから、引越してくる娘さんのお嬢ちゃんにこう言ってやったのよ」
老女はにやりと表情を作って、話しのオチをつけた。
「お嬢ちゃん、この庭はおばあちゃんがすっかり手入れを施したものだから、住み心地がいいってもんで、フェアリーが住みついちゃったの。わかる? 花の精霊よ。でもおとぎ話のとおり、花を枯らしたり、この庭を丸まるぶっこわして、小屋なんかを建てようものなら、行き場を失ったフェアリーたちが、恨み晴らしたさに、夜な夜なお嬢ちゃんのその可愛らしいおさげをちょん切りにくるんだからね!」
可愛らしく老けたその外観に似合わず、エキセントリックなおばあちゃんだと思った。
それから紅茶を二杯もおかわりして、楽しい時間を過ごさせてもらった。できることならしょっちゅう通いたいと思ったのだけれども、少し遠いのと、中学生になるふたりの子供の世話がまだ離れないこととで、気持ちはあっても、足が向かうことはなかった。
それから季節がひとつ動いた頃、自宅の庭で散る花と、咲く花を見つめているうち、ふと潤子おばあちゃんのことを思い出した。そして、都合よく自宅の庭のちょっと育てるのが難しいバラが病気にかかった。話しでは過去にバラ園を持っていたと言っているし、こういうことはきっと専門だろう。それに目的があればティーガーデンまで歩くのも億劫でなくなるの。
由紀子は二度目の訪問をした。
案の定、潤子おばあちゃんは的確なアドバイスをくれた。どうやら、育てるのが難しい種類というもののほとんどが、日本の土や気温に合わないもので、そのバラもイギリスでは手間いらずで、ほっといても勝手に咲くものなのだとか。
頼りがいのあるおばあちゃんだなぁ、と由紀子は思っていた。
由紀子のおばあちゃんといえば、口うるさい夫の姑のことである。子育てのことでも意見が合わないし、別居してるだけマシなのだけれど、そう遠くないところに住んでいるので、土日に夫の都合があうたびに電車に揺られてやってくる。そのたびに、子供を甘やかして、食べ物、飲みもの、高額のおもちゃの類まで買って与える。それを「やめてください!」というたびに、しょげて帰るのだが、後日必ず夫から忠告を受けるのだ。「あれでもおれを生んでくれたひとなんだから、やさしくしてやってくれよ」と。
やさしくしてほしけりゃ、態度を改めろってんだ。あんたの子供じゃなくて、わたしと旦那の子供なんだから。土日べったりじゃ、あたしらどこにもいけないじゃないか。そのせいで、息子はことあるごとに「お母さんより、おばあちゃんのほうが好きだな」ってあたしの前であてつけるように言うし、夏休みに娘が友達と外泊旅行に行くって言ったときに、あたしがそれは許しませんといったとき、「お母さんはどこにも連れて行ってくれないじゃない」って言われたときのあたしの気持ち、あんたには分からないだろう。
あたしの家族だし、あたしの夫なのに、どうして時々あたしのものじゃないみたいになるんだろう。
姑さんは悪い人じゃないけど、あたしを傷つけて知らん顔していられるのは、きっと彼女が鈍感だからだ。自分のことしか考えてないし、わたしのことなんかこれぽっちも考えていない。自分を押し通すことばっかうまくて、あたしは何度泣かされたことか。
ああ、どうして嫁は姑を選ぶことができないのだろう。旦那とペアでくっついてくること事態がまちがっているのだ。わたしは旦那を深く愛したからこそ一緒になったのであって、姑がここまでマイナスの対象になるとは、あの頃の若いわたしは気づかなかった。
くじびきだと思った。
好きな男とくっつく時のくじびきこそ、女の一生を左右する大一番なのだ。それからはだれも逃れることはできなくて、それを拒否するということは、結婚をしないということと同一なのだ。
もし、わたしが潤子おばあちゃんのようなお姑さんに当たっていたら。
わたしの人生、もう少し明るかった。
そんないや気持ちを悟られず、ニコニコお話しをしていられる時間が、徐々にわたしの救いになっていった。
しかし、相変わらず忙しさにかまけて、歩くのも億劫で、生きがいといえば庭に花を咲かせることぐらいだった。
潤子おばあちゃんはわたしの中の救いだから、そんなにしゅっちゅう甘えてはいけない。そんなストイックなところがわたしのいいところでもある。でも、そんな風に気取っても、結局、バスも使えない路地裏を延々と一時間も歩くのが億劫なのである。
いい大人なのだから、いやな気持ちも自分で処理しなくちゃ。
せっせと土いじりを続ける由紀子。これは本当に腰にくるので、体勢にちょっとしたコツがいる作業だ。できれば、服が汚れても、その時々の楽な姿勢を心がけたい。
そんなこんなで、作業が終わるころにはすっかり泥だらけになってしまった。
今日は少し頑張りすぎたわね。子供たちが帰ってくる前にシャワーを浴びて…。
ふと顔をあげる。娘の夏子と…、見慣れない男の子。由紀子もこの年なので人相を見る力は備わっている。その人相を見る力が瞬間的に導き出した結果が。
「乗り上手の別れ上手」
であった。この子もまだ中学生だろうから、今からそうではないにしても、そういった因子を持っているタイプの少年であった。
夏子も中学三年生だし、恋愛のひとつやふたつ、経験としていいとは思うが、こんな色だけで性根の定まっていない男と手をつないでるなんて、まだ若いと思った。
男の子と視線が合った。じーっと。あら、こんばんは。上がっていく? そう。
夏子の顔が真っ赤になる。下唇をかんで、何か心の奥から上ってくるものを抑えているようだ。嫉妬? いやいや、わたしも昔は女学生だったから知っている。こんな泥だらけの母をボーイフレンドに見られて恥ずかしいのだ。その恥ずかしさのはけ口をすべて、母親にぶつけているのだ。
少年はうちに上がって、わたしがシャワーを浴びている間に帰った。そもそも、この年頃の少年は女の子のうちに上がりこむこと自体が英雄的行動であり、そのあとのことは空っぽなのである。学校でもないし、面と向かって女の子とじっくり話し合うこともできず、時間が過ぎるだけ。そんな男の子の感情を女の子は分からないので、あら、なんだかちがうわ。つまらないひとね、と大概そうなる。
しかし、夏子はそうじゃなかった。男の子がそっけないのもすべて、わたしの所為にしてきた。泥だらけの母親を見て、興醒めしたんだと、そう決めつけていた。
女にとって、恋愛を他の女に邪魔されるほど屈辱的なことはない。しかし、これはケースバイケースというもので、娘はまだ知らないだけなのだ。しかし、知らないからこそ、純粋に怒り、知っているものの言うことは絶対に受け入れない。
最期の方は夏子も泣き顔で、「お母さんが足引っ張った、お母さんなんていらない」と、繰り返すだけであった。
しかし、そのことばが母をどれだけ傷つけたか。
サンダルをつっかけて、ものすごい勢いで家を飛び出したところまでは覚えている。
なんで、あたしばっかりこんな目にあわなくちゃならないんだろう。
自分でも分からないけど、不思議なくらい悲しかった。
気がつくと、薄暗い路地を歩いていた。
夕飯の支度をしなくちゃ。あの子達、お腹を空かせているわ。
べそをかいていた。こうやって涙を流すのは、しばらくぶりだ。
足が向かったわけじゃない。決してそうじゃない。頼ったわけじゃないし、頼りにきたわけでもない。しかし、今立っている場所はティーガーデンの目の前だった。
帰ろうかとも思った。ティーガーデンだし、きっと五時ごろ閉まってる。くだらない。くだらないわ。
きっと、くだらないのはわたし。いい大人なのに、家を飛び出して。
でもきっとあの影は、おばあちゃん。潤子おばあちゃん。こんな遅くまで泥まみれで花の世話をしているのは、潤子おばあちゃんにちがいない。
「そうねぇ、大人になって割り切れることは多いけど、言われていやなことはいやですものねぇ。あっ、諫言は別ですよ。諫言を聞き入られないのは人間ができてない証拠ですもの。いやでも…、大概の言われていやなことって、そのまま、本当に言われたくないことですよ。たとえば…、わたしはこのとおりババアですけど、ババアといわれるのはいやです。わたしはあまり年老いた女にいい印象はありませんからね。その点、あなたの場合は…、本当にがんばってらして、自分は家庭の中心だと自負できるくらい器量がありますから、それを否定されるのがいやなんでしょうね」
由紀子は黙って紅茶をすする。そのとおりです。そのとおりですとも。
「でもそれだけで大人の女が家を飛び出すわけはありませんよ。だからわたしは、あなたのそのいやな気持ちの爆発には、お姑さんが強くかかわっていると思うの」
姑? どうして姑がでてくるのだろう。
「あなた、お姑さんをひどく嫌ってるでしょう。すべてお姑さんのせいにして、お姑さんを悪に仕立てている。それが一瞬、重なったんじゃないかしら。ほら、あなたがお姑さんで、娘さんがあなたの役よ。その瞬間、あなたはお姑さんと同一存在になり、あなたはそれを強く拒んだ。だから、こんな"おおごと"になってしまったのね」
潤子はニッコリと微笑む。
そうだ。確かにわたしは世界で一番あの姑が嫌いだ。わたしの幸せの花から液を吸い取る、カメムシのようだと思ったことさえある。そして、あの瞬間、夏子にとって世界で一番嫌いなカメムシは、わたしだったのだ。
そう、重なったんだ。あの瞬間、わたしは世界で一番嫌いな存在と同一になった。これが深層心理というものか。
がっくりと頭を垂れる。首の筋肉の力が抜けてしまった。
潤子はカウンターから出て、由紀子と少しはなれた、窓から庭の見える席に座った。
「人間生きていると大小構わず、いろんな悪いことの芽に出会いますよ。でも、花にならなければ気づかないのがわたし達です。ほら、あの沢山の草花だってどれだけつぼみにもならずに枯れますか。あなたなら分かるでしょう。悪いこともそうです。花になって咲くことはまれです。わたしたちは日々のくだらないことばっかり悩んで生きてます。花にすらならない悪い芽が生まれては枯れて、悪い花を咲かせるための肥料になっていくんです。ちくりちくりと、悪い芽も育っては枯れて、いつか大きな花を咲かせるんです」
悪い花も、こつこつ積みあげて、咲くのか。
「でもね、わたしは思うんですよ。悪い花は地中の悪い気を吸って育つでしょう。だから、咲いた時はすごくいやな気持ちになりますよ。でも、その花を摘み取ることができたら、土壌の中はすっかりきれいになって、とてもいい環境を築くことができるんじゃないかと」
きれいな土壌。とてもいい環境。
「わたしは…、あなたの悪い花は、お姑さんだと思いますよ。いえ、実際の存在するお姑さんじゃなくて、あなたが心の中で作り出した、わるーいわるーいお姑さんです。そのお姑さんをやっつけないといけませんね、由紀子さん」
潤子おばあちゃんはニッコリと微笑んだ。
そうだ。この悪い花を咲かせたのは自分だ。自分の中の悪い気が集まって、花を咲かせたんだ。姑を必要以上に憎む気持ちが、わたしの中の潜在的な甘えが、そうさせたんだ。そうして、こうなった。わたしは子供たちの夕食の支度もすっぽかして、夕闇の街をべそをかきながら徘徊していた。
今まで刺さったことにすら無関係でいた心の中のとげたちが、今になって一斉にその先端をわたしの心に突き刺してきたのだ。そして、それらの痛みは今、無視できないほど強くなっている。
「わたし…、これからどうしたら……」
「どうにかするしかありませんねぇ」
きょとんとして、わたしは潤子おばあちゃんの顔を覗き込んだ。
「わたしもそんなことを繰り返してきましたからねぇ」
潤子は依然会ったときのように、遠くを見つめる目になった。
「ひとを憎むのはいやですねぇ。できれば何もかも、許してしまいたいものです。何もかも自然体で受け止められたら、人生は楽なんですけどねぇ、なかなか…」
なかなかということは、おばあちゃんもまだできていないということだろうか?
「なかなか…、ですか?」
由紀子は思わず聞いてしまった。
潤子は窓から庭を眺めながら、しみじみと言った。
「なかなか、ですねぇ」
それから、ちょっと後のこと。
「あら、由紀子さんこんにちは、夏子ちゃんもこんにちは。あ、これ。ヘチマよ。ヘチマって、美容にいいってきいたから。え、この年にもなって美容のことを心配するなって? こら! 夏子ちゃん。おばあちゃん怒るよ! …まあ、たしかにそうなんだけど。きっと余るから、若いあなたたちにもおすそ分けしてあげるわね。ん、今日はおすそわけを持ってきたんですって。お姑さんから? あら、スイカなのね。ありがとう! さっそく切るわね。飲みものは…、麦茶がいいわね。さあさ、中に入って。暑かったでしょう!」
相変わらず、エキセントリックな潤子おばあちゃんであった。
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