クリエーティブミュージアム

ショートショート集 「2007年8月」

作品紹介   あとがき


ひのえうま
馬淵潤子のティーガーデン
奸計お茶汲み族
我輩は蜘蛛である


     我輩は蜘蛛である

 我輩は蜘蛛である。どこで生まれたのかとんと見当もつかぬ。どことも知れぬ暗闇の中で、雨露のごとく誕生したにちがいない。うじゃうじゃと兄弟がいたことだけは覚えている。
 ある日、風に煽られて千里のたびに出た。大半の兄弟は根付かず、食われ、潰され、散々な目にあったらしい。
 はてな、ここはどこであろう。我輩が着陸したのは、やけにふわふわした、か細い糸の集合体のような、なんともいえぬ場所であった。
 ここは天国であろうか。天国とあらば、大勢の親兄弟が出迎えてくれるはずであろうが、どうやらそうでもない。
 近くで、バンバンと音がする。もしや地獄であろうか。我輩はできるだけ高い場所に自慢の八本の足を使ってよじ登った。
 あれは人間の奥方である。バンバンと叩いているのは、白くてやけにぺたっとした綿でできた長方体である。
 人間の奥方は無表情だが、どうも鬼気迫る感じがする。よくみると、長方体の中からはノミやダニ諸君が逃げ出しているではないか。その大半が日光に当たっては、即座に死に、ぽろぽろと地面に落下してゆく。
 我輩が生まれたのは、地獄ではないが、地獄にも似たような世界であった。

 人間の奥方は、相変わらず長方体をぶっている。趣味だとすれば、悪趣味である。散々に弱者をいたぶり、それでいて無表情でいられるのは、彼女が鬼だからに相違ない。
 観察を続ける。あらかたのノミやダニ諸君が死滅したあと、奥方は長方体を抱えて去った。その後すぐ、奥方は新たな長方体を持ってきて、またバンバンと叩きはじめた。
 なるほど。我輩はこの世の中の仕組みを少しだけ知った気がした。
 弱者を弱者たらしめんとするは、弱者そのものであり、強者を強者たらしめんとするは、これまた強者そのものであるのだ。
 くわばらくわばら、我輩も賢くなくては生き抜けん。生き抜けんとするは、大勢の死した兄弟に申し訳がたたぬ。

 我輩を蜘蛛たらしめんとするは、このでん部から繰り出す"くもの糸"にちがいない。我輩ら蜘蛛族は、この糸を使って巣をつくり、獲物を捕らえて、日々の糧を得る。
 この糸は生まれて間もなく自然と繰り出すことができた。幼き昨日など、風に飛ばされながらもこの糸を繰り出し、必死になってくっつくことができる場所を探していたものだ。
 我輩も先祖に習って、縦糸と横糸を織り交ぜて、立派な巣を作った。
 生まれてから、ふうと一息つく間もなく働きとおした。それゆえ、大抵の蜘蛛は巣を作り終えたあと、ぐっすりと寝入ってしまうというが、果たして我輩もそうであった。
 むにゃむにゃと夢心地快い最中、ぶびびびびと、不快な音がして目が醒めた。
 その音は何度となく、ぶびびびびと繰り返し、やがておとなしくなった。
 目をこすり、音のした方に目を凝らすと、そこには一匹のハエが止まっていた。
「おいおい、たまったもんじゃねえよ、まったく。どこのどいつだ、こんな場所に網なんかしかけやがって。おかげでおいらの羽がいっちまったじゃねえか」
 どうやら、このハエは我輩の巣に絡まったようである。
「やあやあ、我輩の現世における始めての食事君」
「始めての食事君だあ、てやんでえ。おいらをだれだとおもってやがる。遠く遥か中国岐山生まれの天下無双、ハエの又三郎たあ、おれのことよ」
 我輩はとりわけて身分にこだわる蜘蛛ではないので、そのハエ君はさっそくと我輩の胃袋の中に押し込まれることとなった。
「甘露甘露。見てくれは薄汚いことこの上ないが、ハエ君はなかなか美味であった」
 その翌日、ひらひらと白く舞う影あり。我輩の美食を満足たらしめんとするものと存ず。我輩は縮こまって隠れてさえいればよかった。案の定、あちらさん前方不注意著しく、羽が我輩の巣に触れた瞬間、「あっ」と叫びこそしたが時すでに遅し、白いひらひら嬢はかくして我輩の胃袋に納まる運命となった。
「あら、これが蜘蛛の巣なのね。気がつかなかったわ。お母さんにはあんなに気をつけろといわれていたのに」
「娘子、気分はどうであるか?」
「どうがんばっても羽が動かない。これはとても気味がよくないわ」
「若い身を散らすは惜しいが、こちらとて生ける身。許せ、娘子」
 白いひらひら嬢はどうも羽に粉がついていて、美味そうにない。しかたなく、胴体から食させてもらおうと近づいたそのとき。
「あら、こんなところにも蜘蛛の巣が張ってる。いやんなっちゃうわ」
 と、人間の奥方あらわれ、手に持った細長い棍棒にて、我輩の巣をめちゃめちゃに破壊いたすのであった。
 ああ無情。揺れながら崩壊する我が巣にて、白いひらひら嬢は無事脱出。九死に一生を得る形になったが、我輩は日常生活において修復不可能な打撃を受けたのである。
 我輩はここにひとつの悟りを残す。この世は不条理である。

 月が満ちたり欠けたりするたび、我輩は同族のことを思う時間が長くなった。
 生き残った兄弟はどこかで無事に暮らしているであろうか。それだけが心配である。
 あれ以後我輩は、巣を建て直し、多くの食を得て、立派な大人の蜘蛛になった。
 それゆえ、同族恋しくなったのである。
 どこかに我輩の子孫を残してくれる娘子がいるはず。
 相変わらず、人間の奥方はバンバンとノミやダニ諸君を殺戮することを日課にしているが、だからといって、あちらは異属。我輩の中の嫁恋しさを減退させる不安材料になることはなかった。
 うなされること一日千秋の想い。たまらず、我輩は嫁探しの旅にでかけることにした。

 それは長い長い旅路であった。そもそも蜘蛛は一箇所に定住する生き物であるからして、旅には向いている体つきとはいえぬ。八本の足はあるが、かさこそと動けるばかりで、決して足が速いわけではない。滋養分乏しく、持久力もない。
 ありとあらゆる昆虫が敵の世の中。草に隠れて一日ずっとうずくまっていることもあった。その甲斐あってか、ようやくとある土地で同族の娘子を発見することができた。
 彼女、我輩の何倍も大柄で、初めはとまどうこともあったが、これが同族の娘子と割り切ってからは、建設的な関係を築いていった。
「おたくさん、どこの出身で」
 我輩はあまり出身をとやかくいう蜘蛛ではないので、
「どことも知れず」
 と答えると、
「あら、わたしもそうよ」
 と、境遇が一致する感じがした。
「わたし、あまり出身がよくない蜘蛛だから、相手に対して出身だけは聞いておきたかったの。さあ、こっちにおいでなさい」
 娘子は我輩を受け入れてくれたようだ。我輩は遠慮なく八本の足で彼女によじ登ると、義務的ながら、しばし人間達が言う至福のときを味わった。
 これで少し経ったら、我輩の子孫がうじゃうじゃと生まれるにちがいない。
 人間と同じで、蜘蛛も子孫には自分のできなかったことを託す。我輩は我輩の子らがうじゃうじゃと生き残り、街中を蜘蛛の巣で一杯するほどに繁栄することを願った。
「おたくさん、お忘れじゃなくて」
 おや、娘子が我輩のそばに近づいてきた。
「蜘蛛の雄は種類によって、交尾のあとすぐ、雌に食べられてしまうんですよ」
「おや、初耳だが」
「そんなことありませんよ、おたくさん。さあさ、どこから食べられるのがご趣味で」
 うむと我輩は唸ったが、しばらくして、このまま生きていては先祖に顔向けできぬことに気がついた。よく考えれば、我輩の父も我輩が生まれるための滋養分になることによって、生涯を閉じたのである。
「好きにいたすがよい」
「好きにたって、こっちもあまりのり気じゃないんですよ。同族を食うなんて、こっちだって申し訳ない気持ちで一杯なんですから」
「うぬ、しからばいっそ、頭から願う。ねちねちとかじり取られながら死ぬは、あまり心地がよさそうにない」
 しばし遠慮した後、彼女は「えい」というかけ声と共に、我輩の頭にかじりついた。
 薄れゆく意識の中、我輩は古から連綿と受け継がれ、決して色あせることのない記憶の集合体の一部に触れる感じがした。
 古い記憶の中、どこかの猫も似たようなこと言っていたような気がする。
「死んで太平を得ん。死なば太平を得られん。死してのみ太平を得られるならば、我輩は甘んじて死を選ぶ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ありがたい、ありがたい」


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