第一章「いつもどおりのプロローグ」
湯気で曇るドア越しに、ジャーという水の滴る音が聞こえる。この中でシャワーを浴びている人物こそが、この小説の主人公だ。
身長は170〜180cmくらいだろうか?歳は20代の後半に見受けられる。彼はトレードマークである藍色の地毛にシャンプーをつけ、丹念にごしごしと洗っている。
室内がシャボンの香りに包まれた頃、彼は頭を流し、湯船にゆっくりと浸かった。
「ふぅー、原稿が仕上がった後の朝風呂は格別だな。徹夜明けの眼を覚ます為にも、体がふやけるまで、ゆっくりと浸かるか」
この台詞から汲み取れる通り、彼は徹夜で原稿を仕上げたばかりの苦労人なのだ。
もう、お気づきの方もいらっしゃるはず。彼の名前はデニーロ。売れないシナリオライターである。
さて、今回はどんな出来事が起きるのであろうか?おっと、始まりを告げるチャイムは鳴らされたようです。
ピンポーンと玄関の方角から音がした。もちろん、呼び出しのベルだ。
俺は湯船から上がると、タオルで体を適度に拭き、パンツを履いた上に今使ったタオルを腰に巻いて玄関へと急いだ。
このとき俺は、来訪者が若い女性であることを願いつつも、そうでないことを祈っていた。
なんせ、この姿は刺激が強すぎる。間違って警察を呼ばれでもしたら、俺は履歴書に今度から前科一犯と書かなくてはならなくなってしまう。
しかし、玄関に突っ立っていたのは若い女性だった。だが、警察を呼ぶような”しとやか”な女性ではない。知り合いだ。
「ついに気が狂ったようね。明日の新聞の見出しは『売れないシナリオライター、婦女暴行で捕まる!』かしら」
「よせやい。原稿が仕上がったから、朝風呂に浸かっていただけさ」
「あら、今回は期限に間に合ったのね。じゃあ、見せなさい」
そう言うと、彼女は靴を脱いで猫の額ほどの玄関から室内へとあがった。無論、俺も後からついて行った。
「相変わらず狭い部屋ねぇ。更にゴミ溜めときている。こりゃ早く嫁さんこさえた方が良いわよ。あっ、これじゃ彼女が出来なくて当たり前か」
確かに独り暮らしの男の典型例とも言える散らかった部屋だ。1LKで家賃も格安の4万円弱だ。しかし…。
「だったら、もっと広い物件に引越しするから、原稿料を上げてくれ」
「のんのん。あんたは足軽なんだから、編集長に直訴しても相手されないの」
「編集長って…、お前のことだろ」
そう、彼女は俺が厄介になっている雑誌の編集長だ。名前はヘレン。高校のときからの腐れ縁で、俺の方が拾われた口だ。
昔から頭の上がらない奴だった。抜け目がなくて、計画的で、人を捨て駒のように扱うヒドイ存在だ。鬼の娘かもしれない。
ヘレンは金色の髪をなびかせながら問うた。
「この散らかしっぷりじゃどれが原稿か分からないわ…。整理なさい。それと早くパンツを履きなさい」
「タオル越しに履いてますとも…。」
俺は服を着て、徹夜で仕上げた血と汗と涙が詰まった原稿をヘレンに手渡した。
「じゃあ俺は、お前が原稿に目を通している間、部屋の掃除をするから」
ヘレンが原稿に目を奪われている隙に、俺は掃除と洗濯を済ました。正に鬼の居ぬ間に掃除洗濯!
一週間前のカップラーメンの底にカビが生えていたが、それは内緒にしておいてくれ。
ヘレンが原稿を読み終わる頃、俺は溜まっていた新聞紙を縛ろうとしていた。そのとき、ふと疑問が頭をよぎった。
「あれ?トイレットペーパーの買い置きあったっけ。」
俺はすぐさまトイレに駆け込んだ…。ヘレンが原稿に目を通し終わったのは、その直後だった。
「よし!この原稿掲載させてもらうわ、って…、あれデニーロどこ」
ヘレンは原稿を『謎の塊』の上に置き、デニーロを探し始めた。
「あー…、あとでスーパーに寄って、買い足さないとダメだな」
「デニーロ〜。どこに居る〜」
呼ばれたので俺はトイレから出た。ヘレンはなぜだか台所のシンクの中に向かって声を荒げていた…。
「なんだ、お前も気が狂ったのか。俺は服部半蔵じゃないから、そんなところには隠れないぞ」
ヘレンは不意打ちを喰らったことにより、一瞬体に電流が走ったようだが、すぐさま俺のことをジト目で見つめた。
「あんたが予告無しで居なくなったから、こうやって探してやったんでしょうが」
この強気の態度はヘレンの照れ隠しのようなものだ。そう思いたい…。
蒼い瞳が俺を射抜く。俺はたまらず話しを反らした。
「ところで、今日は何の用なんだ。まさか、早朝から俺の部屋を視察に来たわけではあるまい」
ヘレンは思い出したように「あっ!」と声を上げると、本題を話し始めた。
「取材クルーの一人が黄熱病にかかってダウンしたのよ。緊急事態だから、あんたを代役にまわそうと思って」
アマゾンの奥地にでも取材に行ったのだろうか。野口英世先生に助けてもらうと良い。
「黄熱病って…、俺を不慮の事故で病死させる気か?」
「勘違いしないで。素人のあんたをアマゾンの奥地に行かせるようなことはしないから。要するに彼が抜けた分の穴埋めの穴埋めをして欲しいだけだから」
「穴埋めの穴埋め…?単純な仕事なんだろうな。」
「ものすごく単純よ。わたしの後ろについてれば良いような仕事だから」
「して、給料はいくら出す」
「給料はそうねぇ…、焼肉2回でいいかしら?」
ヤキニク!その響きに何人の猛者が命を投げ出したことだろうか…。(なんじゃそりゃ)
「俺がそんなにお得な仕事を断るようなへタレ男に見えるか?無論、断る理由なぞ地球上には存在しない。」
出来れば、大ジョッキもつけて欲しいものだ。
「そう言うと思って、すでに臨時の名刺を作っておいたわ。はい」
俺はヘレンから10枚の新品の名刺を受け取った。
「なになに…、アイドル専門記者『デニーロ』だと!裏面にも何か書いてある…」
その名刺の裏には嘘の経歴が並々と書き綴られていた。元甲子園球児だとか、元ホストだとか…。挙句の果てには月収100万円とか書いてあった。
「俺に嘘をつけというのか!この清らかな俺に!?」
ヘレンは即座に返事を返してきた。
「悪いようにしないわ。あんたは今日一日、その役柄を名乗っているだけで良いの。それともカルビと豚トロを裏切るつもり?」
「うっ…、ホントにそれだけでいいんだろうな」
「言ったでしょ。悪いようにはしないわ」
ヘレンのその台詞には魔法の説得力がある。俺は「分かった」の一言で承諾した。
「じゃあ、これからTV局に取材に行くわよ。コートでもなんでも早く持ってきなさい」
俺は紺色のコートを羽織り、外に出る支度を3秒で済ませた。なんせ外に持ち出すような財産はないからな。
「出来た。さあ、いつでも発進できるぞ」
「身軽でいいわね。じゃあ、わたしのバッグを持ってもらおうかしら」
「まあ待て、俺にバッグを預けるとすごいことになるぞ」
ヘレンは目だけで俺を足先から脳天まで一望した後、呟いた。
「言われてみればそうね。あんたの危なっかさは国士無双だもんね」
こんな会話は日常茶飯事だ。何事もなく、俺とヘレンは一緒に外に出た。
3月の冷たくも暖かい風が頬を撫でる。外にはまだ寒さが残っていた。
「あっ、折角だから新聞紙を持って行こう。ゴミ捨て場はすぐそこにあるしな。ヘレン、ちょいと待っててくれ」
ヘレンが何か憎まれ口を言っているようだが、とりあえず耳に入れずに部屋に戻った。
外と室内の寒暖の差に体が慄いたが、やがて来る春を思えば、これも風物だと感じた。
俺は、縛りかけの新聞紙の束をナイロン製の白い紐できつく縛り、それを片手で持ち上げてヘレンの元へ戻った。
「いやぁ、スマンスマン。じゃ、行くか」
二人はゆっくりとデニーロ宅である、ボロアパートを後にした。
新聞紙の束の中に、デニーロが心血を注いで書き上げた原稿が、最上段で縛られていることに気づかずに……。
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