第四章「コード:ペーパーロール198円」
「あんたはここで待ってなさい」
そう言い残して、ヘレンが奈々子の控え室に入っていったのは一時間も前の話しだ。
取り残された俺は、独り虚しく廊下の隅っこで体育座りをして待っていた。
「遅いなぁ〜。てか、俺がついてきた意味ってあるのか?」
何気なく窓越しに眺めた空は夕焼けに染まっており、遥か上空には秋刀魚雲が延々と浮かんでいた。それにしても…。
「腹減ったー…」
腹は正直だ。腹だけは誤魔化しが効かない。兵糧の運搬が滞った為に、歴史的大敗を決した戦を俺は何個も知っている。
その時、不意に俺の脳裏にナイスアイディアが浮かんだ。
「涼子ちゃんなら、何か恵んでくれるかもしれないな」
彼女なら嫌な顔ひとつせずに米でも味噌でも譲ってくれそうだ。だが、その優しさに甘えてしまって良いのだろうか?悩む…。
「あれ?デニーロじゃない。どうしてここに…」
見上げた先には真っ赤なスーツが?桐江か。妹に用事があるならば、このTV局に居ても可笑しくはないのだったな。頭を働かせるべきだった。
ならば、ここは桐江に奢ってもらうか。脳内で瞬時に打算が打ち出された。
「あの時、電話がかかってきてただろう。その声の主が目の前にある控え室の主で、柏木奈々子って言うんだ。ちょいと用事があるみたいで、俺も強引に連れてこられたんだ。焼肉もキャンセルされて腹を空かして参ってたところなんだ。何か奢ってくんない?」
最後の言葉を聞いた桐江は、明らかに脱力しきって、こう答えた。
「奢りって…。まあいいけど、誠意があればいつか返してよね」
俺は体育座りから我が身を解放させ、桐江と目の高さを合わせた。
「焼肉で返すよ。ヘレンからの奢りはまだ受け取ってないからな」
心なしか、桐江の表情が一瞬だけにんまりとしたような気がした。
「期待して待ってるわ。じゃあ、妹の控え室に案内するからついてきて。」
「ん?桐江の妹って出演者の方だったのか。てっきり裏方か何かだと思ってたが」
歩きかけていた桐江は、足を急停止させながら首をこちらに向け、丁寧にも満面の笑みでその質問に答えてくれた。
「桜ちゃんって言うの。私の自慢の妹よ」
「不知火桜かぁ…。」
そこで会話はストップし、俺は桐江に無言で着いて行くことになる。頭の中で考えていたのだ。桜か…。偶然にもタクシーに乗りながら思い耽った桜がここで正夢になるとは…。そういえば、桐江と出会った時も似たような既視感を味わったんだったな。
しかし、そんな高等哲学も腹が減ったことにより併発した思考障害によって、敢え無くピリオドを打つことになる。やはり、俺は胃袋が資本らしい。
この目と耳を疑ったのは、不知火桜の控え室の目の前でのことだった。
「さ、ここが桜の控え室よ。遠慮しないで入って」
そう言いながら桐江が開けた扉の表面には、でかでかとゴシック体で『佐倉涼子様控え室』と書かれた紙が張ってあった。
「……………」
部屋の中にはまぎれもなく涼子が座卓に座っていた。その上には銅鑼屋シュークリームとプリントされた横長の空箱が置いてある。桐江の差し入れで間違いあるまい。
「あ、お姉ちゃん…。あれ、その方は」
「私と同じ雑誌で、しがないコラムとか書いてるデニーロよ。お腹を空かせてるみたいだから何か出してあげて」
「え…!アイドル専門記者デニーロ伊藤さんじゃないんですか」
涼子の大きく見開いた無垢な瞳が俺にのみ視線を集中させる。さてと…どうしたものか。
「それ嘘よ」
「あっ、嘘だったんですか」
俺の心配をよそに、姉妹同士のテレパシーのような淡白な会話で、俺の実像は涼子に偽りなく提示された。俺の内側の気まずさも一気に何処かに吹っ飛んだ。
「めんご。別に騙すつもりはなかったんだ。ヘレンって名前の秘書が一緒にいただろ。実はあっちが黒幕で俺は操られていただけなんだ」
涼子は頭の良い娘だ。たったこれだけの情報でも、それらを脳内で正確に組み立てて、ある程度の状況を把握した様子だった。
「なるほど…。あっ、それよりも何か食べられる物を出しますね」
涼子が動き出すと同時に時間は動き出し、入り口で突っ立っていた桐江と俺は靴を脱いで室内にあがり座卓に腰掛けた。
この部屋を使い慣れているのだろうか?桐江はテキパキと備え付けの道具を使って、三人分のお茶をこさえる。
それが終わる頃、涼子も大きなトラベルバッグから沢山のビニール袋を抱えて、それらを座卓に置いた。
「この前、取材で行った○×県の皆様から頂いたお土産です。残念だけど、ひとりじゃ食べきれないので遠慮せずに召し上がって下さいね」
小さな座卓なので、大量のビニール袋が総面積の70%を占めるほどの事態になった。
「うわぁー…。我が妹ながら天晴れな収穫ね」
桐江は身近に置いてあったビニール袋の中身を確認しながらそう言った。表情は驚きのあまり多少引き攣っているようにも見える。
「じゃあ早速」
俺は手頃なビニール袋を開いた。中には笹に包まれた、手作りであろう少しばかり形の崩れた鮨が整列していた。
「心がこもった贈り物だ。これを作るのは大変だったと思うよ」
「それは70歳を越えても毎朝畑に出掛けるおばあちゃんから頂いたものです。これを作ったのは久しぶりだってとても喜んでました」
「へぇー、もしかして全部覚えてたりするの?」
「はい。さっきも言ったとおり、食べられる保障はありませんから、失礼にならないようにしっかりと心を頂戴するんです。」
その言葉に感心しながらも、どこか心に引っ掛かるものがあり、俺は箸を置いた。
「でも、やっぱりこれは涼子ちゃんが食べるべきだよ。おばあちゃんが涼子ちゃんの為に作ってくれた物なんだから…。俺なんかが食べちゃ勿体無い」
その問い掛けに涼子は真剣な眼差しで答えた。
「私はアイドルですから、多くの方々から好意でいろいろなものを貰います。でも、その中でも私が処理できる範囲って限られているんですよね。だから…、場合によっては、特に食べ物だと腐らせて捨てちゃうことにもあるんです。でも自分が好きなものだけを受け取って、自分が嫌いなものを全部捨てるじゃあまりにも失礼だと思うんですよ。だって、皆さんは同じ好意でものを選んで私にくださる訳じゃないですか。だから、おばあちゃんが一生懸命作るってくれたからと言って、ひいきして処理することは出来ないんです…。だから、デニーロさんに食べて頂くだけでも、そのお鮨は幸せです。私はものではなく、気持ちをしっかりと頂いてますから」
俺は箸を持ち直すと、鮨を美味しく召し上がった。
「うまい!」
そうか…。そうだよな。いくら聖人君子でも人間である以上は限界があるもんな。それに真摯な対応をすることこそが、精一杯の感謝の気持ちなんだろうな…。
なあ鮨よ。お前は俺に食われる為に作られた訳ではないが、こんなにお前のことを思ってくれる人が居るんだ。こんな結末でも満足しろよ。
その後、俺は片っ端からビニール袋を開けて、むさぼるように食べあさった。果物などの名産系が多かったが、日持ちしなさそうなものから順に処理した。
「……、デニーロの食欲にも天晴れだわ」
茶をすすりながら一部始終を眺めていた桐江はそう呟いた。
涼子は愛想にしては一瞬で男を悩殺できよう表情でこちらを見つめている。
コンコン。不意にドアから音がした。無論、外からノックをする音だ。
「雅夫だけど、入っていいかな」
声の人物はそう名乗ると、是非を聞く前に扉を開けて中に入ってきた。これは明らかに嬉しいハプニングを自らの手で掴もうとする男がやる常套手段だ。
涼子独りの場面を思い浮かべていたのだろうか?驚いたような表情を見せたと思うと、マジマジと俺と桐江を眺め始めた。
その態度から何かを察した涼子は、相手が質問する前に答えを提示した。
「姉とその御職友です」
「あー、なるほど、なるほど」
雅夫は無理にでも納得したような態度を取った。やたらと俺に向けられる目の色が気になる。涼子の恋人だと間違えているのだろうか?
「こちらは福川雅夫さん。同じ番組で共演している俳優さんです」
「福川雅夫?あのミリオンヒットを飛ばした『魚坂』を歌った?」
俺よりはそっちの世界に詳しい桐江が言った。魚坂?一体どんな曲なのだろう…。
「そうです。まさかミリオンまで行くとは思いませんでしたけどネ」
謙虚な発言の割には、自信を伺える声色をしていた。
「それよりも…。涼子ちゃん、さっきのケガは大丈夫かい?」
「はい。ちょっとだけ痕が残りましたけど、もう痛くはありません」
涼子にしては、起伏に欠ける声でそう答えた。
「それは良かった。美人の君に傷なんてものは必要ないからね。はい、変更された明日のスケジュール」
涼子は雅夫から一枚の紙を受け取った。
「ありがとうございます…」
次第に元気の薄れてゆく涼子。雅夫のことが嫌いなのだろうか?
その思いがけない反応にうろたえた雅夫は、ペースが崩れ、挙動が忙しくなった。
「えーと…、じゃあ、明日もまた会おうね。バイバイ」
雅夫は早々に控え室を後にした。計算された去り際を演じた感じがしないでもない。
「さてと、桜。今日はもう仕事は無いんでしょう。一般家庭なら夕食を食べながらニュースを見てる時間帯だもんね」
俺の腕時計は8時の10分前を告げていた。
「うん」
未だに元気の戻らぬ顔で涼子は答えた。
「じゃあ、今日はお姉ちゃんが外で奢ってあげるから。さ、着替えして」
なるほど。不知火姉妹はこんな感じの姉妹なのか。仲は良さそうだ。
「……………」
涼子は座卓を眺めたまま動こうとしない。雅夫が何か酷い台詞でも言ったのだろうか?確かに雅夫と会ってから様子がおかしかったな…。言えば力になってあげるのに!
「あの…」
なんと、心の声が聞こえたのだろうか。涼子が声をかけてきた。打ち明けてくれるのか?
だが涼子はその言葉を発した後、一行に次の言葉を紡ぐ気配が無い。
それに対して痺れを切らした桐江が、意味深な表情でこう言った。
「着替えるから外に行ってだって」
あっ、なるほど。そういうことね。座卓に薄っすらと写る涼子の顔は頬を赤らめていた。
暫くして控え室から出てきた涼子は、印象が変わるような服装をしていた。
紺色のスタンダードなジーンズの上に、白い羊毛のゆったりとしたセーターを着て、頭には少年がかぶるようなやんちゃな帽子が添えられていた。
さっきまでは清楚でなよっとした印象を受けていたが、今では活動的な印象を合わせ持った少女に見えるようになった。どこか桐江のスタイルに似ているとも言える。
不知火姉妹を廊下で送り終えると、俺はヘレンに「待っていろ」と言われていた奈々子の控え室の前へと急いで戻った。
どうやら会話はまだ続いているようだ。二時間くらいは朝飯前なのだろう。
だが俺の到着を待っていたかのように数分後に扉は開かれ、中からヘレンが出てきた。
「あら、どうしてデニーロがここに」
ヘレンは俺の存在価値を否定する言葉を発した。ヒ…ド…い…。
「お前が無理やり連れてきたんだろうが」
「あー、そうだったわね」
悪びれる様子は少しも感じられない。これがヘレンの厄介な本性だ。
「ところで、奈々子と二時間も何を話してたんだ」
「番組でトラブっちゃったみたいでね。共演者との関係だとか…、とにかくも相談相手になってあげてたのよ」
あの奈々子がヘレンに相談!どれだけ親密な間柄になっているのだろうか…。ヘレンの書いた特集記事を見るのが楽しみで仕方ない。
それよりちょっとまて。奈々子の共演者ってもしかして…。
「なあ、奈々子の共演者って、涼子ちゃんだったり、福川雅夫だったりしないか?」
「え?そうよ。それがどうしたの」
やはり、その三人が出演している番組でトラブルが起きたのか。ケガは大丈夫とか言っていたな。もしかして涼子と奈々子がトラブルを?
「ヘレン、そのトラブルを詳しく聞かせてもらえないか?気になることがあってな…」
「別にいいけど…、ここじゃ無理よ。だってもうすぐTV局の正門が閉まるもの。どこか違う場所に移動しないといけないわ」
「じゃあ、近くに公園があっただろ、そこに行こう」
俺とヘレンは、TV局の近くの公園を目指して歩き始めた。
二人の情報を合わせると、事件の全貌が浮き上がった。
「俺たちが去った後、涼子ちゃんと奈々子は同じ番組の出演者として収録を始めた。その番組には雅夫も出演してて、涼子ちゃんと雅夫との問題シーンに怒りを覚えた雅夫親衛隊が舞台に上がって横暴を行ったと。それにキレた奈々子が雅夫親衛隊の娘達を一騎当千を達成するほどの膂力でちぎっては投げ…、結局番組はお蔵入りとなり、涼子ちゃんも雅夫親衛隊に襲われた時にケガを負ってしまったと」
ベンチに座って20分。ようやくハテナマークが取れた瞬間だった。
「そうか、涼子ちゃんはきっかけを作った自分に対して負い目を持っていたから、雅夫に対してあんな態度を取ってしまったわけか。なるほど」
俺は、手元のコーヒーから熱気が失われていることにやっと気づいた。
「それにしても涼子ちゃんが桐江の妹だったとは…」
ヘレンは深々と下を向いて思い耽ってしまっていた。よほど意外だったに違いない。
俺は残っていたコーヒーを飲み干すと缶をゴミ箱に捨てた。その時に発生した缶同士がぶつかり合う音によって、ヘレンは眠りから覚めたように顔を上げた。
「寒い…、やっぱ夜の風はまだまだ骨に沁みるわ。早く帰りましょう」
ヘレンは即座に立ち上がると、あくびをしながら帰路についた。俺もヘレンについて行く。てかついて行かないと今日中に帰れそうに無い。
真っ暗になった夜の公園から電柱の明かりを頼りに俺とヘレンは歩く。去り際に不意に公園中央に目が向いた。そこには大きな老樹が腰を下ろしていた。でこぼことした無骨な印象を受ける木だった。
「なあ、ヘレン。あの木はなんの木だろうな」
ヘレンは足を止めて向き返り、それなりに夜目の利く瞳で一点を見つめる。
「暗くてよくわからないわよ。外来の生命力が強い木じゃないかしら?それよりも早くタクシー拾って帰るわよ」
俺はヘレンに従って足を速めた。どうやら流石のヘレンも少々お疲れの様子だ。
中央通りでタクシーを拾ってボロアパートに帰る…。
狭い玄関を抜けて、ようやく我が家に帰ってきた。
「そういえば、今朝原稿もらって行くの忘れていたわ。持ってきて」
ヘレンの注文に答えて、俺は原稿をヘレンに手渡した。
「……、チラシの束じゃない」
「なぬ?」
確かに今朝徹夜で仕上げた原稿はチラシの束に変わっていた。
「あっ!ちょっと待て…、確か原稿は……」
俺は脳裏から記憶を辿る…。何かひっかかる。チラシの束、新聞紙、ゴミ出し…。
「そうだ、原稿は新聞紙の最上段……」
この世に凍てつく沈黙が訪れた…。
「捨…て…た…」
身の危険を感じた俺は駆け出した!へレンが入って来られない場所…、トイレか!
俺はすぐさまトイレに駆け込むと、鍵をかけて籠城の構えを取った!
「デニーロぉー!原稿を捨てるとは何事だぁー!今すぐに書き直せぇ、さもなくば断罪してやるぅー!」
トイレのドアは次元の狭間。いくらヘレンでもこのラインを突破することは出来ない!それにトイレは生活環境としても籠城に一番適す場所だ。三日は耐えてやる!
ドンドンとドアを叩く音が次第に強くなって往く!持ちこたえろ!!
「……………」
俺は最大の過ちを犯していた。紙が無い…。その数分後に俺は降参を表明することとなった。スーパーに寄ってさえいれば…。口惜しい。
「えっ!右手を見られた!」
「良いのお姉ちゃん。別に隠したくて隠してる訳じゃないから…」
「でも、これはあなただけの問題ではないでしょう…。困ったわね」
「……………」
こんな物語にも事件の気配が漂い始めるのであった。
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