クリエーティブミュージアム

三月に咲いた桜

作品紹介   あとがき

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第五章「消えた少女」

 俺がニューサウスビルの地下にある特別執筆室から解放されたのは、あの日から一週間が経過した水曜日の正午だった。
 ちなみに特別執筆室とは、暴力による弾圧によって作家に原稿を書かせる、いわば拷問のような行為を平気で行える秘密の部屋だ。
「はい、ごくろーさん」
 へレンが迎えに来ていた。片手にはよく冷えたビールが握られている。
「おっ、気が利くね。じゃ、仕事の終わりの一杯といきますか」
 俺はヘレンから缶ビールを受け取ると、数秒で一気に飲み干した。
「うまい!」
 口に泡をつけながら幸せをかみ締める。生きてるってスバラシイ!
「ふっ、かかったわね」
 ヘレンの表情が冷たく変わる。もしや、毒でも盛ってあったのか…?
 俺は自分が飲み干してしまった缶ビールをマジマジと見つめる。もう戻れない。
「死ぬ前に駅前のタコヤキラーメンが食いたかった…」
 俺はその場に倒れこんでしまった。走馬灯がクルクルと頭の中を駆け巡る。
「なにやってんの。ビール一杯で倒れることないでしょう」
「だって…、お前が毒を……」
「バカ。今あんたを殺して私に何の得があるのよ」
 そう言われてみればそうだ。体も全然平気な気がしてきた。
「けどビール一杯の恩はちゃんと果たしてもらいますからね」
 やはり、このままずっと倒れていたい。

 俺はヘレンから編集部の留守番を頼まれた。今日はそれぞれの都合で皆が出払ってしまう日らしい。お菓子が食べ放題なので、さほど苦ではないが。
 それにしても静かな編集部ほど怖いものは無い。まるで潰れてしまったかのような錯覚に陥る。机に置いてある山積みの書類から妙な哀愁を感じる。
「……、このような事態だけは避けたいな」
 願うように、思わず口から出た一言だった。
 黙っていても仕方が無いので、俺は台所の戸棚からお菓子を持ち出し、一度でいいから座ってみたかった牛革の編集長席に陣取った。
「ポテチに煎餅に干し芋か…、もう少し高いお菓子を買っておけばいいものを」
 愚痴を言いながらも、ポテチの袋を開けてバリバリと食し始める。
 そのとき、プルルルと目の前に置いてある編集長専用の電話にコールが入った。留守番を任されたからには受けなければなるまい。俺は受話器を取って耳に当てた。
「柏木奈々子ですけど。ヘレンさんですか」
 なんと、電話をかけてきたのは奈々子だった。俺は口に残っていたポテチを根性で飲み込むと、マニュアルに沿った応対をした。
「編集長のヘレンは留守中です。用件があれば後で伝えるのでどうぞ」
 数秒の間が空いた後、奈々子はこう答えた。
「涼子が…、佐倉涼子が行方不明になっちゃったんです」
「な、なんだってー」
 思わず声に出してしまった。涼子ちゃんが行方不明だと。そんなバカな…。
「どうして行方不明だと?根拠は」
「時間になっても収録現場に現れないんです。プロダクションに連絡したら涼子はそっちに向かったはずだって言ってました。この前の雅夫親衛隊との件もありますから、嫌な胸騒ぎがして…」
 雅夫親衛隊に襲われたとでも言いたいのだろうか?可能性がない訳ではないが。
「す、すぐにヘレンに伝えるから。えーと、連絡先は」
「○×△□です」
 彼女の連絡先をメモすると、ヘレンに連絡する為に電話を切った。
「えーっと、ヘレンの携帯の番号は…」
 うろ覚えだったが、弾いた番号は正解だった。ヘレンに電話が繋がる。
「デニーロ、どうしたの」
 ヘレンは表示された電話番号によって、相手が俺だと気づいていたようだ。
「柏木奈々子から電話が入ったんだ。涼子ちゃんが行方不明になったらしい」
「な、なんですって」
 俺の耳が壊れるくらいの悲鳴に近い声だった。予想通りの反応だ。
「桐江には確認してみたの?」
 その台詞が終わるか否かのタイミングで編集部の扉が勢いよく開き、桐江が室内に向けて突撃しながらこう言った。
「桜が行方不明になった!」
 どうやら事態は予想以上に深刻になってきたようだ。

「私は奈々子ちゃんに詳しい事情を聞きに行くわ。あなた達は涼子ちゃんが行きそうな場所を徹底的に探してみて」
 ヘレンのその言葉に従い、俺と桐江は涼子が行きそうな場所を考えてみることにした。
「桜が収録をすっぽかしてまで行く場所なんて、あるわけ無いわ。桜は子供の頃からアイドルになることを夢見てた娘だから…、きっと何か事件に巻き込まれたのよ…」
 桐江の顔が次第に陰りを帯びて行く。
「良い想像ではないが、雅夫親衛隊の誰かが誘拐したと考えるのが妥当かもな」
「……早合点はいけないわ。桜の部屋に行ってみましょう。まだ行方不明になったと決まったわけじゃないわ」
 桐江は心の中で分かっていても、そうは考えたくなかったのだろう。部屋には涼子が居て、何気なく迎えてくれる。そんな淡い妄想をしていたに違いない。
 だが、部屋の中には手がかりになるものがあるかもしれない。俺は桐江の提案に賛同することにした。
「よし、そうしよう」
 俺は、桐江の運転するフェアレディZに乗り込み、涼子の部屋へと向かう。
(どうか、大事には至らないでくれ…!)
 そう願わずにいられなかった。

 到着した先は、古いとも新しいとも言えない築10年程度のアパートだった。ベージュ色の外壁が、どこか大人びた印象を与える物件だ。
 外側の階段から二階へ上がり、桐江が持っていた合鍵を使って涼子の部屋に入った。
「あっ!」
 桐江が驚き声をあげた。俺は桐江の注目する先に目線を合わせる。
「あの娘、靴はふたつしか持ってないの。今ここに残っているのは、マネージャーに言われて買ったお洒落なブランド靴。収録の日は決まってこっちを履いて行くのよ。もう片方、つまりここに無い方の靴は使い古しのスポーツシューズ。はっきり言って、私用でしか履けないようなボロ靴よ。それを履いて出たってことは、収録に行く為に万全の体勢で外に出たとは考え難いわ…」
 靴置き場をじっと眺める桐江。暫し沈黙の後、顔をこちらに向けて話しかけてきた。
「とりあえず、中に入ってみましょう。その為に来たのだから」
 重い足取りで、桐江は室内へとあがる。俺もそれに続く。
 涼子の部屋の中は、小奇麗に整理された女性ならではの生活空間だった。荒らされた形跡は微塵も無い。強引に連れ攫われた訳ではないらしい。
 キッチンにはカレーの鍋が置き去りにされており、食器類は洗ったまま棚に戻されることを知らない状態だ。
「部屋の中で襲われた感じじゃないな。自分の意思で外に出て、その後で行方不明になったようだ」
 桐江に配慮して、言葉使いは丁寧に選んだつもりだ。
「……、これを見て」
 俺は桐江が指差している物を見る。壁に掛けてあるメモボードだ。
「これは忘れっぽい桜が一週間のスケジュールをメモしておく物なんだけど…、今日が収録日だと、ちゃんと分かっていたみたいね。毎朝のチェックが赤ペンでしてあるもの」
 確かに今日の日付の場所に、赤いペンで二重丸が書かれている。
「ってことは夜中のうちに居なくなったケースは消えたようだな。毎朝のスケジュールチェックで今日の分がすでに確認されてあるんだろ」
「あっ、なるほど…」
 いつもの桐江なら、こんな単純な推理なら俺よりも先に出来ているはずだ。どうやら動揺は隠しきれないらしい。

 その後、俺と桐江は涼子の部屋の中を徹底的に探した。その甲斐も虚しく、結局手がかりになりそうな物は何も出てこなかった。
 桐江はテーブルに顔をつけてうずくまっている。心配でしょうがないのだろう。
 万策尽きたか。どうやらこの部屋に手がかりを期待するのは、もう無理らしい。
「桐江、残念だが次の場所に行って手がかり探そう。ヘレンも一生懸命、手がかりを探してるはずだから心配するな」
「……、うん」
 桐江はだるそうに立ち上がる。それが俺にも伝染してしまいそうだから彼女の心労は測り知れない。
 俺と桐江は部屋を後にして、フェアレディZの前に戻った。途中、桐江のおぼつかない足取りに冷や冷やしながら…。
「辛いかもしれないが、雅夫親衛隊に攫われたケースを前提として探してみよう。それと運転は俺が代わる。事故を起こしたら元も子もないからな」
 桐江は素直にそれに従い、崩れるように助手席に座った。
 その時、桐江のポケベルが車内に響き渡った。その音を聴いた瞬間、桐江は今までと打って変わり、素早くコールの相手を確認した。
「あの娘の…、桜の携帯からだわ」

 その頃、ヘレンは奈々子と雅夫を相手に事情聴取をしていた。
「涼子ちゃんが自ら居なくなっちゃうようなことに心当たりは?」
 その問いに真っ先に答えたのは雅夫だった。
「ないね。それに収録をすっぽかすような無責任な娘には見えなかったよ」
 それに奈々子が続く。
「確かに、一生懸命を人間にしたような娘だったわ…。やっぱり、あの事件がきっかけで雅夫親衛隊に誘拐されたのでは?」
「そんな物騒な…。僕が彼女と抱き合っただけでそこまでするもんかなぁ」
 奈々子と雅夫は顔を見合わせて唸る。
「じゃあ、論点を変えるわ。雅夫親衛隊にそこまで暴走しちゃうような娘はいるのかしら」
 この問いには奈々子が真っ先に答えた。
「会長の『水無月あずさ』が一喝すればなんだってする組織です。彼女の暴走は組織の暴走。それにあの事件のときに妨害するように命じたのは、あずさです」
 ヘレンは重要人物の名前を即座にメモしながら問いを続けた。
「水無月あずさの命令にそぐわない者は追い出されるってことかしら」
「そうです。上級幹部でも、あずさの代わりに命令を出すことはできません。雅夫親衛隊は、あずさが管轄する師団のようなものなんです」
(要するに、雅夫親衛隊の意思は水無月あずさの意思だと…)
ヘレンは真相を把握した。
「じゃあ、水無月あずさに接触すれば、この事件に雅夫親衛隊が関わっているか分かると」
 その台詞に対して、雅夫が困惑した表情で答えた。
「あずさちゃんに会うなんて無謀だよ。彼女の父親は現在の環境大臣なんだ。はっきり言って、僕でも手を焼いているんだ。好意を持ってもらえるだけマシだけど、敵には回したくないね」
 ヘレンは雅夫に視線を合わせると、投げ捨てるように言った。
「誰もそんなことは聞いてないわ。あずさが何処に居るか知りたいだけ。国内に住んでるんでしょ?悪いようにはしないわ」
 その時、今まで座っていた奈々子が水を得たように勢いよく立ち上がり、口を開いた。
「連れ行きます。だって、あずさは私の昔の友達ですもの」
 フランス王朝の血を継ぐロイヤルレディが日本の閣僚の娘と交友関係を持っていても可笑しくは無いか…。ヘレンは心の中でつぶたいた。
「そう。案内してくれるのね、奈々子ちゃん。有り難いわ」
 奈々子はヘレンの前に右手を開いて突き出すと、神妙な顔つきでこう述べた。
「勘違いしないで。あずさをぶっ潰す良い機会だから協力するだけよ。決して佐倉涼子の為に動くわけじゃないから」
 ヘレンは微笑を送った。彼女は自分に似ているから本心は分かっている。照れ隠しだ。
 その時、ヘレンの携帯にコールが入った。すぐさまそれを受ける。
「誰かしら…?あ、桐江。涼子ちゃん見つかった?…えっ電話が入った!」

「そうなの、水無月あずさって雅夫親衛隊の会長が、桜の携帯を使って私に連絡をしてきたの!」
 俺の隣で、桐江が車内電話を使って、ヘレンに電話をかけている。
「桜と大事な話しがしたいから、誘拐したって言っていたわ。心配するな、時期に返すとも…。私、どうしたら!」
 桐江は真実を告げられ、気が動転してしまっている。実の妹を誘拐したと犯人から電話がかかってきたのだ。どんなに豪胆な人物でも気は狂うだろう。
「……うん。分かったわ」
 桐江は電話を切ると、熱っぽい表情で、俺にこう言った。
「あとはヘレンがどうにかしてくれるって…」
「そうか…」
 俺がそう喋ると、桐江は車の座席にもたれかかり、目を閉じ、片手で顔を覆って、もう一方の腕を植物のつるのようにだらりとさせると、その行方を自然と重力に任せた。
 安心はしていない。体がもう動かないだけだ。桐江の悪夢を終わらせる方法とは、涼子と抱き合い、彼女の温もりを感じること以外にはありえないのだ。
 どうやら、今回の討ち入りシーンに俺は参加することが出来ないようだ。この衰弱しきった桐江を置いて行くことは出来ないからな…。
「あとは、ヘレンに任すか」
 不意に口から出た一言だった。

「あっ…止めてッ!」
 涼子の右手から純白のグローブが脱がされる。
「やっぱり、こう言うことだったのね。うふふ…」
 奪ったグローブを右手に握り締めた少女が薄ら笑いを浮かべる。
「これ、バレたら大変よねェー…、クスクス」
 明と暗が別れた部屋で、密かに事件は進行を続ける。


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