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Mithril Bird
作品紹介
あとがき
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<8>
ろうそくがジリジリと音をたてながら、赤々と燃えている。
おそらく今夜は、村中のろうそくが一箇所に集められていることだろう。
夕暮れからふりだした雨が、夜中には滝のような轟音となった。
川は氾濫し、橋は流され、農作物を守るために村の男たちは、それぞれの畑へと散っていった。
大雨は弱まらない。時間が経って、山がきしむような音を鳴らしだした。
ギィー、ギィー。その音の感覚が最大限まで狭まったとき。
だれかが叫んだ。
「土石流だ!」
瞬間的な速さで発生した巨大な土石流は、山から大量の土砂や倒木を抱え、徐々に肥大化しながら、まるでバケモノのような唸り声をあげて、村を直撃した。
一直線にすべてをなぎ倒すバケモノに、なす術もなく呑まれていく村人たち。
土石流は、ほんの数秒で村の半分を土砂に埋めてしまった。
「おとうちゃん!」
女子供の悲鳴が、村に響き渡る。
難を逃れた男たちが率先して、村人の救助をはじめる。
泥の中から助けられる村人たち。その大半は、無事では済まされなかった。
呼吸をしていないもの。岩が身体に刺さったもの。骨が砕けたもの。
それらの患者が一箇所に集められ、治療を施されていく。
村に滞在していた、ひとりの女医の手によって。
彼女の名前は、ルビィ・フローライト。
「もっとお湯を! お湯を沸かしてください!」
今にも気絶しそうな男の傷口に、火で熱したナイフを当てて止血を施す。
手早くタオルで傷口を巻くと、ルビィは次の患者を診る。
傷口を触診する。硬いしこりのようなものがある。これはきっと、砕かれた岩の破片が、体内に食い込んでいるのだろう。
「足…、おれの足…」
「大丈夫、無くなりはしませんから」
ルビィは、熱湯で消毒したナイフを取り出すと、その男の傷口を切り開いて、体内から見事、とがった岩の破片を取り出した。
「これでもう大丈夫」
男はすでに気絶していた。
夜が明けても、ルビィが休むゆとりはなかった。
傷口から発熱した患者の診察をしたり。
感染症の心配をして、予防を村人に指示したり。
てきぱきと冷静に、ありとあらゆることをやってのけた。
土砂災害の後片付けがあらかた済み、村人たちがほっと一息ついた頃、それを合図にしたように、ルビィは倒れた。
あれほどの大災害にして、死者なし、という奇跡を起こしたのも、この村にルビィ・フローライトという女医が滞在していたからであった。
微熱が続く。あれほどのことをやったのだから、疲労にちがいない。
でも、今日あたりこの村をあとにしないと、今後の日程が狂ってしまう。
とりあえず、布団から起きて、身体を動かしみて、大丈夫かどうかを、たしかめよう。
上体を起こすと、低血圧のような頭のクラクラが襲ってきた。
顔を洗えば、治るかもしれない。
女医にしては、非科学的な発想である。
「あの…、すみません」
おかみさんがやってくる。
「身体を動かしてみようと思うので、服を持ってきてもらえませんか?」
おかみさんは、驚いた表情で、
「そんな赤ら顔で、無茶しちゃいけませんよ」
ルビィは笑顔で答える。
「赤ら顔は、生まれつきなんです」
おかみさんは、しぶしぶ、服の支度と朝食の準備をしてくれた。
ちなみに彼女の生まれつきは、赤ら顔ではなく、赤毛である。
名前のルビィは真っ赤な宝石のことであり、彼女が赤毛で生まれてきたことの、なによりの証拠である。
食卓を囲みながら、おかみさんはルビィをまじまじと眺めていた。
赤毛にはしっかりとクシが入っている。
「ほら、玉子焼き、あたしの特製なのよ」
「わあ、めったに食べられないんです!」
と、よろこんで玉子焼きをほおばるルビィ。
「ん、おいひい」
やはりどこからどう見ても、ただの女の子。
しかし、あの晩の彼女のことを思い出すと、おかみさんは頭の垂れる思いなのである。
ルビィがこの村にやってきたのは、数週間前であった。
また旅の医者をやっているとかで、世話をしてやったのがきっかけ。
最初は、この子に女の子以上のなにものも感じてはいなかったのだけれど、あれだけのことをやってのけたのだから、相当な苦労を体験してきたのだろう。
「ほら、おかわりならいくらでもあるから、たくさん食べるんだよ」
せめてメシの心配だけはと、おかみさんは少しでも恩を返すつもりである。
朝食を食べたあと、ルビィは村を見て回った。
「あれは、ルビィさん」
「ルビィねえちゃん!」
「あなたがいなかったら、今頃わしの孫は…、ありがたや、ありがたや」
ありとあらゆる村人が、ルビィに好意を示してくれた。
また、体調を気遣う声も多く、ルビィは村人の優しさに癒された。
しかし、村の被害は尋常なものではなかった。
村の半分が土砂に埋もれたわけだから、もはや風景が様変わりしている。
山がなくなり、家がなくなり、橋がなくなり、川がなくなり。
これがルビィがやってきた時と同じ村だとは、現実では理解しながらも、心の中ではまだ疑問に思うのであった。
これらが癒えるまでには、想像以上に多くの時間が必要だろう。
「あら…、あれは」
ふと見上げた空の先、山が崩れて空いた穴の、はるか向こうの景色。
霧に覆われた先の、不気味に黒光る巨大な影、あれは屋敷かしら。
「あれはね」
ルビィの視線を見て、村の男の子が説明してくれた。
「ふるーい、昔のお城なんだって。大人は霧の古城ってよんでる」
「霧の古城?」
「ちかづいちゃダメだよ。わるーいオバケがいて、子供を食っちゃうんだって」
男の子は真剣そのものである。
その会話を聞いてか、ひとりの老人が近づいてきた。
「この子のことばは、あながちうそじゃない。やはり、あっちの森は危ない…。わしもあっちの森に入ったことがあったが、迷子になってしまった」
老人は目をこすると、話しを続けた。
「どんなに正確な地図があったとしても、一度迷ったら使いものにならん。野生の狼がわんさかおった。わしは運がよかったのかもしれんな…」
男の子が尊敬のまなざしで老人を見ている。
「火を焚くことじゃ。火は目印になるし、狼を遠ざける。わしは火を焚いて…、なんとかなった…」
そう語ると、老人は腰をおろし、目の前に広がる景色をじーっと眺めると、
「ひとりに、してくれんかの…」
と、さみしそうに言った。
きっと老人は、自分の臨死体験を、今のふるさとの傷跡になぞらえて、すでに命なき人たちの魂と、向き合おうとしているのだ。
この老人には、今まさに流れている、ふるさとの自然たちの鮮血が見えるのだ。
ルビィには、手を合わせるしか、方法がなかった。
ルビィは、出発の準備をはじめていた。
まだ大勢の完治していない患者が残っているが、そもそも、村全体に医療の知恵があるので、医術に関してはルビィにしか施せなくても、自前の薬草などで事足りることが多かったのである。
おかみさんがやってきた。
「いってしまうのかい?」
「ええ、歩かないと次の目的地にはたどり着きませんから」
おかみさんが、ぶちまけられたルビィの荷物の中から、本を手に取った。
タイトルは「聖典」。
「あんたのようなひとを、女神さまって呼ぶんだろうねえ」
おかみさんは、その本をルビィに手渡した。
「でもわたし、この本の中身、読んだことないんです」
え、と思わず声に出してしまった、おかみさん。
「え、あの、その…、たぶん、大事にしてたんだと思うし、読んだことも一度や二度じゃなかったと思うんですけど…」
ルビィは、聖典のページをめくりはじめた。
「わたし、どうも思い出せないことがあって…、お父さんのこととか、お母さんのこととか、子供時代のこともそう。気がついたとき、ふらふらと歩いていて、目の前にあった教会の門を叩いたんです。その教会に記憶が戻るまではと、やっかいになっていたのですが、ある日、自分には医術の心得があることに気づいて。どうせなら、ひとの役に立ってみようと思って、また旅の女医をはじめたんです。あ、この聖典はもっと昔から持っていたものです。きっと、女神さまがよくしてくれたんでしょうね」
ルビィは、聖典を閉じると、荷物袋にそれを入れた。
「あまり過去にこだわるつもりじゃないんですけど、医術を使えるのが私のような気がして。その…、指を動かしていないと、なんだか不安なんです」
おかみさんは、しみじみと聞いていた。
「やっぱ、あなた、女神さまだわ!」
おかみさんは、荷物袋から聖典を取り出すと、ページをめくって、一節を朗読した。
「ああ、偉大なる女神ディバードは、人界を救うべく、数万年後、神の身を捨て、人間の姿で地上に現れる」
おかみさんは、ごほんと咳払いをすると、
「この聖典が書かれたのが数千年前だから、あなたは女神さまじゃないのかもしれないけど、わたしたちは、あなたのことをずーっと忘れやしないからね」
そういうと、おかみさんはルビィを、ぎゅうっと抱きしめた。
なんだか、照れくさくてしかたがなかったけれど、ルビィはその手に、たしかに母のぬくもりを感じていた。
「近くにきたら寄るんだよ、かならずね」
また旅は一期一会。
昨日であったいいひとにはもう会えないかもしれないけれども、せめて明日であうひとがいいひとであることを願うくらいが希望の種。
旅は孤独である。孤独ゆえに旅に出るのか。いずれにせよ、旅人に情けは無用。
からっ風が通り過ぎる。
ルビィは、荷物袋から急いでコートを取り出し、羽織った。
大雨のせいで、地面はかなりぬかるんでいる。
光も満足に届かぬ森を、ルビィは一生懸命に歩く。
しかし、どんな日程を組んでも、この劣悪な環境の中で一泊しなければならないらしい。
ルビィは、たえずキャンプのできそうな場所を探していた。
コンパスだけが頼りの道。進んでいるのか戻っているのかも分からないが、道を中間点まで進んだらしい頃、ようやく拓けた空間を見つけた。
樹齢の長い樹が倒れる時、まわりの樹を巻き込んで将棋倒しに倒壊することがある。そのあとには、このような拓けた空間が現れる。
空間の中央には、同じように過去にキャンプをしたひとの形跡がある。
ルビィは、木切れを集めて火をおこし、暖をとって眠りについた。
それは不思議な夢なのである。
男性を後ろから眺めている。ルビィは彼の名前を呼ぶ。しかし、その名前が上手く聞き取れないのだ。自分で呼んでいるはずなのに。
ただそれだけの夢なのだが、ルビィはこの夢を過去に何度も見ている。
昔であった夢占師が、それはきっと過去のことを思い出そうとしてるんだよと、いっていた。
こういうことは、よくあるのだという。
夢の中の男性は、ルビィにとってなんなのだろう。いつも目覚めたあと、自問するのである。
お父さん。お兄さん。恋人。どれもそうだと思われる。まるで空気のような感じがする男性なのだ。
夢の中で彼が振り向いたことは一度もない。だから顔は知らない。実際に会ったとしても、そのひとが夢の中のひとだとは、きっと気づかない。
それはそれで、とても切ない感じがする。
物音で目が覚めた。
こういった場所での睡眠は、絶えず神経を尖らせているので、ちょっとした物音でも目が冴え渡るように起きてしまう。
しかし、この場合は起きて正解だったようだ。
ルビィは、倒れた大木に寄りかかるようにして眠っていたわけだが、向こう側に置いた荷物袋の方で、なにやらガサゴソと中身を物色するような音が聞こえてくる。
火が消えて、野生の動物が近くにやってきたのかしら?
狼だったらどうしよう。
でも、狼だったらあの立派な鼻でもって、人間のにおいをたちまちにかぎ分けてしまう。一匹で人間のテリトリーにやってくるはずはない。あたりを囲まれている感じはしないのだ。
ルビィは、思い切った行動にでた。
「だれ…?」
なぞの泥棒に声をかけてみた。
ぴたりと動きが止まる。
もしかしたら、人間?
でも、人間の泥棒だとしたら、すでにもっと怖い目にあわされているはず。
なぞの泥棒は、風のように跳躍して、去っていった。
ルビィにはよく見えなかったが、鹿の跳躍のように感じられた。
しかし、こんな真夜中に活動する鹿がいたかしら?
ルビィは、現場の様子をうかがってみる。
しかし、いくら探しても荷物袋はそこにはなかった。
それは、とても不思議なことに感じられた。
少なからず、あの大きな荷物袋を持っていけるのは、大型の動物である。
それにあの跳躍力。鹿のように思えたが、果たして鹿が驚かされてまで、荷物袋に執着するだろうか?
その他の野生動物であってもそう。大抵は驚きのあまり、逃げることしかできないはず。
「それにしても、困ったわ」
まさか、あれだけ大きな荷物袋が奪われるとは夢にも思わず、つい無用心なことをしてしまったのだから。
あの荷物袋の中には、大事なものが沢山入っているし、なによりも医術に必要な道具も沢山入っているのだ。
なんとかして、取り返さないと。
ルビィは、なぞの泥棒が消えていった方角をしっかりと覚えていたので、それを追うことにした。
満月の晩は、月明かりだけで夜道を歩くことができる。
しかし、それは屋根のない場所だけのこと。
この蔽い茂る木々の葉のせいで、満月の光は半分も届かない。
でも、木々の切れ間から十分な光が筋のように延びていて、それを頼りにして歩くことができた。
ルビィは、くたくたになるまで歩き続けた。
諦めてしまえば、そこでおしまいだからだ。
じめじめとぬかるんだ土を踏みしめて森を歩いて行くうち、もうひとつの拓けた空間を見つけた。
不思議なことに、ここにはついさっきまで火を燃やしていた形跡がある。
「やはり、人間のしわざなのかしら?」
ここまで来て、ルビィは恐ろしさにかられた。
相手が人間だということは、こちらにとって、ものすごい危険が迫っているということだからである。
野生動物に知識があり、危機を回避できるルビィであっても、人間を相手にしては、どんな恐ろしい目にあわされるか分からない。
ルビィは、決断に迫られた。
ここあたりで、なぞの泥棒を追及することをやめて立ち去るか、もしくはなぞの泥棒と対峙して、危険であっても荷物を取り返すべきか。
ルビィは、深く悩んだが、答えが出ないうちに事態は進展してしまった。
向こう側の茂みが、ガサゴソと動いているのだ。
ルビィは、立ちすくんでしまった。
またガサゴソと動く。
ルビィは、かろうじて数歩、後ろに下がるくらいのことしかできなかった。
「あ…」
茂みから顔を出したのは…、一匹の狼であった。
こちらの気配を察してはいるものの、自分のほうが強いぞといわんばかりの態度で、ルビィをぐるりと眺めながら、じりじりと近寄ってくる。
狼だったら…!
ルビィは、コートのポケットから食べかけのチーズを取り出すと、それを狼に見せるように手前でふると、向こう側に思い切りよく投げた。
しかし、狼はその食べ物に見向きもしない。
それより、お前を食べたいんだといわんばかりに鼻息を荒げて、ルビィに近寄ってくる。
これは信じられないことだった。
大自然の原則を捻じ曲げるというべきか、野生の狼が目先の食料に見向きもしないばかりか、損得勘定らしきものを働かせていることなど、この大自然にあってはならない賢さである。
ルビィは、ふるえが止まらなくなっていた。
それに、理解できないことが沢山重なって、頭はパニックを起こしていた。
「いや! やめて! おねがいだから!」
声が震えている。
狼は、じりじりと間合いを詰めるように、ルビィに近づいてきた。
鼻息の荒い興奮した狼が、後ろ足に体重をかけて、飛びかかろうとした、そのとき!
樹の上から、一本の槍が飛び出して、狼のわき腹から貫いた。
槍の投げられた樹の上から、なぞの影が飛び降りてきた。
地面に飛び降りた反動の前屈姿勢から、すっと上体を起こす。
月明かりに照らされて、そのなぞの影が、人間の男だとすぐ分かった。
真っ黒なマントに身を包み、なかなかの長身。
その男は、狼のわき腹に刺さった槍を引き抜くと、なんと、その切っ先をルビィに向けた。そして、
「邪魔をするな。殺すぞ」
と、しゃべった。
ルビィは、不思議とその男に恐怖を感じていなかった。
切っ先をむけられたまま、数えられるくらいの時間が経過した。
男は、ふうと鼻で息をした。ルビィがあまりにも黙っているからだ。
男は、槍の切っ先を、さっき男が飛び降りた樹のあたりにひょいともちあげると、その槍の先に何かをひっかけて、地面に下ろした。
それはルビィの荷物袋であった。
「あなたは…」
「いいから、それを持ってどこへでも行け」
男は、槍の先で荷物袋をつつく。
「どうして、わたしの荷物を…」
男はふうとまた鼻で息をした。説明責任を感じているらしい。
「荷物を探れば職業が分かる。無駄な人殺しをするのもしゃくなんだ」
それ以上は口を開かなかったが、この台詞だけでルビィには大体のことが分かった。
男は、なにやら人殺しも可能なことをしていて、できる限りひとを近づけたくないのだ。暗殺者や密猟者の類であるらしい。
それを悟ったルビィは、荷物袋を手に持って、早々にその場から立ち去ろうとした。
しかし、それができなかったのは、自分の後ろの茂みが揺れたような気がしたからだ。
ガサゴソ、ガサゴソ。
男は、手に持った槍をそこに投げつけると、すばやく茂みに近づいて、槍の先に刺さっているものを検めた。
狼である。
「血のにおいに引き寄せられてきたか…、うかつだった」
ルビィは、狼の死骸を見て、さっきの恐怖がよみがえってきたようで、ぶるぶると身体を震わせている。
男は、ルビィの手を引っ張ると、森の奥へと走り出した。
右手のコンパスで位置を確かめながら、正確に森の中を駆け抜ける。
ルビィが気づいたことは、この道が獣道であるということだった。
足場が安定していて、とても歩きやすい。
この男はやはり、慣れている。
ルビィは、右手が痛いほどに引っ張られながら、男の足についていった。
そして、拓けた空間に行き着いたとき、そこが山小屋であることにすぐ気づいた。
男は、ルビィを掴んでいた左手を乱暴に振りほどくと、すぐにまき小屋へと向かった。
ルビィは、火を使うのだと直感的に気づき、男のあとを追って、まきを運ぶのを手伝った。
そして、山小屋の目の前にまきの束を積み上げると、手際よくそれに火つけて燃え上がらせた。
それらの作業が済むと、男はルビィを無視するような態度をとったまま、ぶっきらぼうに山小屋の中へと入って行った。
これだけ大きな火があればと、ルビィの狼に対する恐怖感は徐々に薄らいできた。
ルビィは、巨大なキャンプファイヤーの前にすわると、これまでの一連のさわぎを頭の中で整理しはじめた。
あの男はどうやら、自分に危害を加える気はないらしい。夜明けを待って、荷物を取りに行きながら、元のコースに戻って、元の目的地を目指すのが、一番いい。
大丈夫。きっと、足跡が残ってあるから、森の中を戻ることは、そんなに難しいことじゃない。
ルビィは、火のぬくもりを受けているせいか、次第に眠気をもよおしてきた。
うつらうつらと、ルビィはまた夢を見た。
やはりまた、男性の名前を呼ぶ夢。好きなだけ名前を呼ぶのだけれど、その名前がなんなのか、やはりルビィには、それをうまく認識することができない。
一度でいいから、顔を見ることができたら。
きっと、こんな夢を何回も見て、彼の名前を呼ぶなんて回想を、しなくてもよくなると思うのだけれど。
やはり、彼はいくら呼んでも、振り向いてくれない。
でもなぜだろう。雰囲気がさっきあった男に似てるような気がするのよね。
きっとこの彼も、あまり自分を表現することが得意ではないのね。
「ワオオオーーーン」
狼の遠吠え。
狼の遠吠えというものは、仲間との意思疎通を図るものであるらしい。遠くにいる仲間と示し合わせたり、健康を確認したりするときに、狼は遠吠えをする。
ルビィは、その狼の遠吠えで目が覚めた。
まだ、夜明け前のことである。
一瞬、びくっとしたが、目の前にはまだ赤々と火が燃えているので、すでにほっと胸をなでおろした。
しかし、狼の遠吠えの数を数えていると、徐々に不気味なものを感じはじめた。
「ワオオオーーーン」
狼の遠吠えはやまない。
あの男も、その遠吠えに不気味なものを感じてか、山小屋からでてきて、無言のまま耳を澄ました。
「ワオオオーーーン」
「ざっと、数十匹…、これだけの群れを統率できるリーダーがいるというのか」
と、男はつぶやくようにいった。
「ワオオオーーーン」
ルビィは、もはや火の前でも安心することができなくなっていた。
「ワオオオーーーン」
茂みの中から、三匹の狼が飛び出してきた。
狼たちは、火を怖がることもなく、三匹で示し合わせて、うまくあたりを囲んだ。
ルビィは、やはりこの狼たちはおかしいと思った。
それはどうやら、男も同じで、冷や汗をかいているように見える。
大自然の動物が、あまり見ることのない火を、怖がらないということが、ありえるだろうか?
狼たちは、一斉に男に飛びかかった。
第一合目で、男は手に持った槍で一匹を刺し殺すと、噛みついてくる他の二匹を、右手で払った。
どうやら、右手には鉄の手甲をはめているらしい。
二匹の狼は地面に無様に着地することもなく、身体をひるがえすようにして、男にまた飛びかかった。
一匹は確実にのど元を狙ってきたが、むしろそれ幸いとばかりに、男は槍で薙いで、その狼に重傷を負わせた。
もう一匹は、阿吽の呼吸で足元を狙ってきたが、男のすばやい切り返しの槍によって、あごから地面に突き刺されてしまった。
ルビィは、片付いたと思った。しかし、さっきの茂みからまた同じく三匹の狼が飛び出してきたので、腰を抜かしてしまいそうだった。
「これはまるで、兵法」
男には、すべての狼を刺し殺す自信はあったが、また三匹と出られては無益だと悟り、またルビィを連れて森の中へと逃げこんだ。
狼より森を走るのがうまいと、ルビィはこの男をそう思っていたが、それ以上にこの土地の狼は、森を熟知しながら的確に待ち構えていた。
それはまさに包囲網としかいいようがなく、ルビィは何度も狼に噛みつかれそうになった。
しかし、男の槍術も凡人の域をはるかに超え、狼よりもすばやく動き、飛びかかってくるすべての狼を倒しながら、森の中を走った。
息も切れ切れ。ふたりは狼に追われながら、夜の森を駆けまわる。
ふと、男がつぶやくようにいった。
「追い込まれている」
「え!」
「追い込まれていると、いっている」
もしや、狼はそこまで知恵を働かせて。
「思い込みじゃないの?」
「……」
男は無言でいたが、それが何よりの答えであった。
ざっと、目の前の茂みが晴れて、拓けた空間に飛び出した。
「あ…、あ、あ…」
ルビィは、目を疑った。
バケモノのように大きな狼が、そこに座っていたからだ。
ライオンという動物を本で見たことがあるが、それくらいの大きさである。
男はすぐさま、槍の切っ先をその狼に向けた。
それにひるむどころか、鼻息をあげながら、すっと立つ姿。
この狼はまぎれもなく、この森のすべての狼を統べる、ボス狼なのである。
うぅーーーーーっと、その巨大な身体からは、狼とは思えなくほどの低音の唸り声が発せられる。
その眼光はあまりにもするどく、ルビィはもう逃げられないと思った。
それに対峙する男のほうは、これまで以上の殺気を発し、もはやそのボス狼の目を睨みつけているだけだった。
ボス狼は、決して自分から仕掛ける気がないらしく、槍の届く範囲ぎりぎりのところで、こちらの出方を伺うように、ゆっくりとステップを踏みはじめた。
しかしなぜ、この狼はわたしたちをこれほどまでに襲おうとしているのか。
仲間を殺された恨みだろうか? それとも、初めからこの森の奥に入ったものには容赦なく死を与えるつもりなのだろうか。
いずれにせよ、ルビィはまだこの事態を避けることを考えているが、そんなあまっちょろい考えは許されないのである。
男は、槍をまわしながら相手をかく乱すると、いきなりボス狼を刺しはじめた。
一発、二発、三発。
殺気のこもったするどい突きだったが、ボス狼はその槍をすべてかわした。
すべて避けられたと悟ると、男は跳躍して、至近距離から槍を投げつけた。
この至近距離での槍投げは、奇襲として完成された形であった。
しかし、ボス狼はその動きを見抜くことはできなくても、抜群の身体能力でもってそれをかわした。
結果として、男は槍を手放したので、ボス狼はこれこそ幸いと、両腕の爪で男を何度も攻撃した。
男は、それらをすべて右手の手甲ではじくように受ける。
それによってダメージは相殺され、なおかつ、攻撃したはずのボス狼の爪を、刃こぼれさせてしまった。
それが頭にきたのかどうか知らないが、ボス狼は一気に勝負を決めるため、全体重を乗せて、飛びかかってきた。
男も右手の手甲でもって、それを上手にさばく。
しかし、ここで狼たちの集団戦法が功をそうしてか、ボス狼の飛びかかりを払いのけたところで、男には疲れが見えはじめてきた。
よく考えると、ボス狼は兵法を使っているのだから、そういった企みがあってもおかしくはないし、また最初のけん制するような態度も、きっと相手がどれくらい疲れているかを確かめるための動きだったのだろう。
それを察してか、男も槍での攻勢を畳み掛ける。
一進一退の勝負。
ようやく、ボス狼にも疲れが見えはじめてきた。
しかし、男はもう息が上がっている。
ボス狼は、また全体重を乗せて、勢いよく飛びかかってきた。
男は、それを上手にさばく。
しかし、ボス狼には二の手があった。
なんと、着地した瞬間に、男に強烈な後ろげりを喰らわせたのである。
男はそれをモロにくらって、吹っ飛び、地面にうつぶせた。
「ああ!」
ルビィは、声を上げた。
まさか、狼が後ろげりを使うなんて、これこそ野生仕込みの格闘術。
男は、上体を起こした。
口から血を流しているところを見ると、口の中を切ったらしい。
それぐらいなら大したことのない傷だろうが、男の疲労は転ぶと立ち上がることすら困難なところまできていた。
ボス狼が男を見下すように近づく。
このままでは、あっけなく首筋をかまれて、終わってしまうかもしれない。
「あ…、あ、あ」
ルビィの胸を、締めつけるような痛みが襲った。
ふっふと、軽い足取りでボス狼は、男に近づいてゆく。
もはや、勝負は決まったのである。
ボス狼が、男ののど笛を食いちぎろうとした、そのとき!
男は、すばやくその口の中に、右腕を突っ込んでやったのである。
差し出された右腕に、即座に喰らいつくボス狼。
手甲はその驚異的なあごの力が食い破られ、牙が男の腕に突き刺さる。
「ううーーーー! ふー! ふー!」
男の右腕から血が溢れる。
だが、その男からしてみれば、これすら想定のことであった。
男には命を捨てる覚悟があった。それにボス狼の牙を受けて、闘志を維持するだけの精神力を持っていた。その結果、ボス狼の牙は封じられたのである。
ボス狼はあがく。刃毀れした爪で、なんとか男を仕留めようと懸命に頑張る。
男のマントがズタボロに引き裂かれ、肉が裂け、血が出る。
ボス狼が劣勢と見るや、子分の狼たちが茂みから飛び出して、男に噛みついた!
「ああ!」
ルビィは、もうダメだと思った。このままじりじりと、男は狼たちに殺されてしまうのだ。
さすがに男も視点がぼやけて、今にも気を失いそうな感じである。
もう、勝敗は決まってしまったかのように見えた。
しかし、男の目には焦点が定まり、にわかに生気を取り戻した。
男の左腕が殺気を帯びて俊敏に動く。
なんと、生身の左腕で、ボス狼の目を潰したではないか!
さらに、立て続けに狼の急所である、鼻っ面をわしづかみにして、ぎりぎりと絞めはじめた。
ルビィは、失神しそうになった。
今、目の前で繰り広げられているものは、まさに殺し合いなのだ。
男は、ボス狼の目を睨みつける。そして、鼻っ面をぎりぎりと絞め上げる。
ボス狼は、次第に呼吸が荒くなり、ジタバタと不快感を体全体で表すようになった。
もしかしたら、男の絞めつけが強くなり、口も塞がれているので、窒息しそうになっているのかもしれない。
ルビィは、唾を飲み込んで、勝負の行く末を見守っていた。
ボス狼のジタバタが徐々に強くなる。やはり呼吸をしたがっているようだ。
それの動きは極限にまで達した。そして…。
ボス狼は喰らい付いた牙を離して、思いっきり息を吸い込んだ。
そのとき、男は自由になった右腕の手甲でもって、ボス狼の胸を思いっきり、殴った!
勝負は決まった。
ボス狼のぱんぱんに張った肺は、驚異的な外圧によって、弾けてしまった。
ボス狼は呼吸困難を引き起こし、ひゅーひゅーと声をあげながら、よだれをたらし、あたりをウロチョロと動きまわった。
そうした挙句、ついにドサっと横たわり、その身体全体は徐々に生気を失ってゆき、最後には目の焦点がなくなってしまった。
子分の狼たちは、ボス狼のまわりを悲しみの声をだしながら、うろうろしていた。
そして、ボスがついに息絶えると、一斉に遠吠えをはじめた。
その悲しい遠吠えは、森を揺らし、ルビィの心の奥底に食い込んだ。
満身創痍の男を山小屋に運んだあと、ルビィは彼を治療した。
途中から意識をなくした男を担いできたので、ルビィもかなり疲れてはいるが、それは女医の維持というべきか、精神力でもってそれを克服し、無事なんとか、男の治療を成し遂げたのである。
男の傷は、筋肉や筋に断裂があるわけでもなく、派手なわりにまだ軽いほうだった。それよりも、狼に噛まれて発症する狂犬病の心配のほうが大きかった。
それにしても、あんな勝ち方で、この男はいくつもの戦いを乗り越えてきたんだなと、その身体に刻まれた傷痕を数えながら、ルビィは男の過去を想像していた。
「こんなに傷痕がある人、他にはいないでしょうね」
そもそも、この男は何者なのか。
ルビィは、男の寝顔を見ながら、うつらうつらと考え事をしているうちに、疲れのせいか、ついには自分も寝込んでしまった。
ルビィの寝顔に、朝日が差し込んでいる。
そのまぶしさにも目を開けぬほど、彼女は疲れているのだ。
男は、こっそりと山小屋を抜け出し、手にした槍を抱え込むと、コンパスを覗き込み、その方角を指さした。
「霧の古城…、やはり、あそこが匂うな」
そうつぶやくと、男はその方角に向かって、歩きはじめるのであった。
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