しばらくの間、重苦しい沈黙があたりを包み込んだ。
バルトもルビィも、頭を整理する時間が必要だったからだ。
ジーザス・クライストはバルトの弟かもしれなくて、そのバルトの弟のヨシュアは、過去のルビィと何らかの関係をもっていたかもしれないのだ。
バルトは語りはじめた。
「ヨシュアは…、可哀想なやつなんだ」
バルトはそっとルビィの顔色をうかがう。とてもショックを受けているようだが、昔話を遮ろうとするようすはない。
「おれたちはトネリコの民の神官の家に生まれた。おれは親に言われるがまま、神官の職を継ぐようなグータラだったけど、あいつはちがった。昔から薬草とか自然の仕組みに興味があったヨシュアは、自分の道を自分の足で力強く歩もうとしていた。15のある日、あいつはいったよ。都で理学を学ぶんだってな。でも、封建的なトネリコの民のことだから、みんな反対したよ。村中のおっさんが集まって、ヨシュアを責めた。おれはその頃、ヨシュアもバカなやつだと思っていたよ。だから…、かばうことができなかった」
バルトは拳を硬く握りしめた。
「きっと、あいつはあのとき、絶望したはずだ。それなのに…」
話しが飛躍してよく分からないが、バルトは歯を食いしばって、しばらく次のことばを出せずにいた。
「あいつは…、都で立派な科学者になったらしい。風のうわさで聞いたよ。でも、やっぱトネリコの民は自然神を信じる民族だから、あいつが科学で自然の仕組みを解明することを、おれたちは自然神に対する冒涜だと感じていたよ。どうしてあんなやつがおれの弟なんだと、遠く離れていても憤りはなくならなかった。そのヨシュアがある日、村へ帰ってきた。そして、共和国の代表とかで、おれたちにディバード教への改宗をしきりに訴えるんだ。村の連中はおれも含めて、ヨシュアがついに敵になったんだと思った。でも、あいつはおれたちのことを一番に考えて、一番つらい役を買って出ていたんだとおれが悟ったとき、村の人間はどことも知れぬ荒野で、ほとんどが自害していたよ」
バルトは、ふと遠い日の映像がよみがえってきて、のどを詰まらせた。
先祖代々の土地を追われて、荒野の果てで死に絶えた同胞たち。
そのときバルトは、すべてを悟ったのだ。
「世の中ぁ、嫌いなやつはぶっ殺さないと気がすまないモンなんだ」
バルトの目から涙が零れ落ちる。
「それなのに、最後までおれたちの味方でいてくれたヨシュアを、おれたちはぶん殴って、けり倒して、村から追い出したんだ。おんなじじゃねえか、共和国も、おれたちも…」
バルトは、搾り出すようなか細い声で、許してくれ、許してくれと、何度もつぶやいた。
ルビィは、胸を引き裂かれるような無念さを感じていた。
この無念さは、どこからくるものだろう。
途方もなく空虚で、それでいて怒りにも似た激しさが心の中から吹き上がってくるのだ。
「あなたたちが…」
自分でも何を話したいのか分からないのに、ルビィの舌は勝手に動く。
「あなたたちが、彼のことばに少しでも耳を傾けてさえいれば、彼はあそこまで絶望せずにいられたのに」
ルビィはどうしても、目の前の男を睨まずにはいられなかった。
記憶が徐々に戻ってきているのかもしれない。
しかし、いつまで経ってもはっきりと像を結ぶことはなかった。
バルトはまだ知らない。ルビィの事情を。彼女が記憶喪失だということを。
ことばのない会話がずっと続いた。
バルトは、神妙な面持ちで、話しを続ける。
「生き残ったのはおれだけだ。自害しろといわれても、憤りが強すぎてできやしなかった。あれから時間が経って今おれが強く思うことは…、ヨシュアに会って、謝りたいっつーことだけなんだ。それが済んだら…、おれは死ぬから。それで許してくれ…」
哀願でも、自暴でもなく、バルトは無念無想でそういう。
ルビィの心は、それに痛く感じ入っているはずなのに、もうひとりのやたら当事者めいたルビィは、決してそれを許そうとはしなかった。むしろ、火に油を注がれたように、怒りはさっきよりもずっと強くなった。
「彼はあなたには会わないわ」
「おれだって会わなきゃ死ねねえ」
バルトは、それだけを生き甲斐にして、これまで生きてきたのだ。
その態度は、もうひとりのルビィをさらに熱くさせる。
でも、もうことばが見つからなかった。
もうひとりのルビィは、やがてしぼむように消えていった。
「ごめんなさい」
元に戻ったルビィは、今までの非礼をわびた。
バルトは、鼻から大きく息を吐くと、
「なにやってんだろ、おれたち」
と、当事者を抜きに喧嘩したあとの気まずさを、痛く感じていた。
「あんたもヨシュアに会いにきたのか?」
ルビィは、答えに困った。
ここまで話しが進んでは、ヨシュアもとより、ジーザス・クライストに会わずして、後悔しないなんてことはないと思う。
でも、霧の古城のジーザス・クライストに会ってよいものかと、ルビィは考える。
彼に会った瞬間、さっきのルビィが、今のルビィを飲み込みやしないだろうか。
そこまでして、過去の自分と向き合う必要があるのだろうか。
それ以前に、霧の古城のジーザス・クライストは、本当にヨシュアなのだろうか。
ルビィは、悩んだ。
でも、もしバルトがひとりでヨシュアに会ったら、バルトは宣言どおり、死ぬつもりだろう。
それはどうしても、許せないと強く思う。
それはきっと、もうひとりのルビィも同じ意見だからだろう。
この世に血を分けた兄弟が、孤独で空虚なもの同士が、なぜ一緒に人生を歩むことができないのか。
ヨシュアの悲しみが、ずっとルビィの心の中で息づいているのだ。
彼の悲しみを救えるのは、きっと兄であるバルトでしかないのだから…。
ルビィは、ふうとひと呼吸つくと、
「わたしがいないと、彼はあなたに会わないでしょうから、一緒について行きます」
と、決意を表した。
すると、ベッドで寝ていたレオンがいきなり起き上がって、
「ならおれもまぜろ」
と、いった。
ルビィはとっさに、
「ダメよ。あなたは怪我人なんだから村に降りて治療を受けなくちゃ」
と、反論した。
すると、レオンは有無を言わせぬ顔つきとなり、
「お前らだけじゃ心配だ」
と、真顔でいった。
他人を近づけないと思ったら、他人の心配をしてしようのない男。
この男はとても分かりづらいと、ルビィは思っていた。
しかし、それにはそれなりの事情があるらしい。
「お前だって、いつまでも他人の世話をしてちゃいけねえだろ」
バルトは声を荒げた。
「おれには本懐なんて微塵も残っちゃいねえ。己の空虚を満たすために生きてるんだ」
レオンも声を荒げる。
「お前は自分の生きる道を探さねえと、おれより若いんだから」
「はん、死に逝くことに憧れる亡霊がおれに説教できる立場か」
うーーーっと、お互いに狼のように牙をむき出しにして、にらみ合っている。
ルビィには、ふたりとも優しさをもって相手に接しているんだと分かっていた。
しかし、優しさでそう簡単に人間が心を動かすかといえば、そうでもない。
「おれはついてゆくからな」
「勝手にしろ」
結局、振り出しに戻ったようだ。
ルビィは、レオンの頑固さに半ばあきれていた。
というのも、レオンが健常であればどうということはないのだが、彼の身体に刻まれた連戦の傷と疲労とを考えると、医者として最低一週間は安静にしていないといけない身体だと知っているからだ。
それでもレオンはゆくのだと。
己の空虚を満たすために生きているといっていたが、それがこの男の原動力なのだろうか。
空虚を満たすことが、それほどの原動力を生むものかと、ルビィは疑問に思っていた。
なぜならば、ルビィは過去の自分という空虚を忘れることによって、今を生きているのだから。
いずれにせよ、ついてゆくというのだから、医者として最低限、レオンの身体は守らなければいけないと、ルビィは思っていた。
それもまた、ルビィの生きる道なのだから。
「ジーザス・クライストは、あなたの失敗を責めてましたよ」
カーンとエドガーは、霧の古城のとある一室で、昼食を共にしていた。
追い討ちをかけるように、カーンは語る。
「もうあなたのことを信用できないと。この剣をわたしにくれました」
カーンは剣を鞘から抜くと、それをエドガーに見せつけた。
エドガーは一瞬、切られるかと思ったが、そうではなかった。
カーンはその剣を鞘に収めると、それをエドガーに渡した。
「いつも帯刀していろと、いってました。どうやらこの剣もあの甲冑のように魔法のようなものがかけられていて、あなたが信義にかかわるような行動を起こすと、即座にその首をはねるように作ってあると、いってました」
カーンは眼鏡をくいっと直す。
「あと、聖体に関してですが…、計画が遅れるのはやむをえない。それよりもエドガーをしっかりと見張っておけと、いってました。なので、あなたは当分の間、この霧の古城の中で暮らしてもらうことになりそうです」
ディオンヌを逃がしたことが、エドガーの信頼にとって、よほどマズかったらしい。
ジーザス・クライストも、カーンも、エドガーを信じる気になれなくて当然なのかもしれない。
エドガーはそれが分かっているので、
「なるべくはやく、信頼を取り戻したいものだね」
と、素直にその剣を腰につけた。
カーンが今もっとも恐れていることは、霧の古城が共和国軍に囲まれることだった。
諜報員が共和国に情報を持ち帰ることがあっても、エドガーさえ離さなければ、彼らとて将来有望なエリートを見殺しにすることはできないだろうと、考えていた。
少なからずとも、エドガーが死ぬか、帰還するかしなければ、共和国軍はそう簡単に動かないだろうと、タカをくくっていた。
それよりも肝心なことは…、もしエドガーが敵の諜報員だった場合、すでにその可能性は限りなく高いが…、切り札を最後まで隠し通すことだと思っていた。
切り札さえ切れれば、あとは何とかなるのだ。
それにしても…、ジーザス・クライストは、わたしさえもあまり信用していないらしい。
その証拠に、今もあの狼がじーっとこちらを見つめている。
果たして、ジーザス・クライストは、D2計画を本気で実行する気があるのだろうか?
いや、厳密に言えばD2計画を実行する気なんて、これっぽっちもないだろう。
しかし、D2計画がもたらす結果を、彼は心の底から喜ぶはずなのだ。
トネリコの民の末裔である彼は、必ず…。
一方、森の中に隠れたディーンは、焦っていた。
いくら探しても牙に会えないし、時間が過ぎれば過ぎるほど、自分が与えられた使命をまっとうすることができなくなるかもしれないと、思っていたからだ。
「こうなったら、危険を承知で霧の古城に戻るしかないか」
エドガーが裏切ったとなれば、その命を奪わずに帰還した責任として、命を失うのは自分の方になるのだ。
それに、エドガーが裏切ってなかったとしたならば、それこそ諜報員として死活問題になる。
ディーンは、牙を探すことによって難局を乗り切ろうとしたが、どうやらそれは失敗に終わったようだ。
それにしても、なぜ牙はどこを探しても見当たらないのだろう。
それこそ、牙にとって死活問題になるはずなのに…。
ディーンは、霧の古城に戻ってきた。
エドガーに接触しなければ。今度は本気で命を賭けている。
前回は堀を渡ることに苦心したが、今回は昇降式の橋が下がっている。
それはそれで、不気味だが…。
ディーンは、その橋を渡って、前回開けておいた一階の窓から、城の中へと侵入した。
まずは、エドガーがどこにいるのか、確かめて回らなければならない。
もちろん、カーンや歩く甲冑に見つかってはいけない。
歩く甲冑のリズムは、大体把握しているので、ディーンは難なく空き部屋を探して回った。
どうやら、一階はすべて何十年も前から使われていないらしい。
二階へと上がる階段はひとつしかないので、慎重さが要求された。
音を聞けば、だれか降りてくるということは分かるが、逆に音を聞かれたら、相手もだれかいるなと、気づいてしまう。
しかし、ディーンはここで機転を利かせて、窓から侵入することを考えた。
簡単なことだ。二階にだって無数の窓があるのだから、うまく様子を見てからなら、こっちの方がずっと安全に二階へとたどり着ける。
一階の窓から外に出て、二階の窓へとよじ登り、そこから城の中へと入る。
どうやら二階のこの部屋も、何十年間と使われた形跡がない。
古い暖炉に、ほこりだらけのベッド、天井にはくもの巣が張ってあり、テーブルは根元からぽっきり折れていて使い物にならない。
穴だらけの絵画、さびた燭台、壁かけの仮面。
仮面。
どうもこの仮面だけ、おかしいような気がしてならない。
なぜならば、ほこりを被っていないからだ。
「ジーザス・クライストの趣味なのかしら?」
それにしても、使われない部屋に仮面を飾る趣味はないだろう。
不気味なものを感じながらも、ディーンは部屋を出て、二階の捜索をはじめる。
三階はたしか、ジーザス・クライスト専用になっているだろうから、きっと二階のどこかにエドガーはいるはず。もちろん、カーンも。
歩く甲冑は、今は広い一階を歩き回っているので、心配はなさそうだ。
まず、あのときエドガーに会った部屋に入ってみよう。
ドアノブやドアの開閉音、足音にまで気をつけて、ディーンは部屋の中へと忍び込む。
そこにエドガーの姿はなかったが、見慣れた部屋に少し安堵感を覚えた。
そのとき、廊下を鳴らして歩いてくる足音が聞こえてきた。
がちゃとその部屋のドアを開けると、ずかずかと中に入ってきた。
カーン・レミントンだ…。
ディーンは、うまくカーテンの中に隠れて、息を殺していた。
カーンは本棚から古めかしい本を取り出すと、それをもって部屋をあとにした。
カーンのいる部屋さえ確かめられれば…。
ディーンはすぐにその後を追跡した。
その結果、カーンのいる部屋を特定することができた。
きっと本を読んでいるだろうから、物音には敏感になっているだろうけど、当分は部屋からでることはないだろう…。
あとは、二階の部屋のドアをやたらめったら開ければよかった。
しかし、その中でディーンは思うのだ。
やはり、エドガーが裏切っていたとしたなら、わたしの命はエドガーとであった瞬間に終わるのだ。
それでも任務だからと、ディーンは心を無にしようと心がけていた。
でも、エドガーの愛人としてカーンを騙すまでの間、彼は本当に優しく接してくれた。
諜報員としては失格かもしれないけど、自分の心を騙すことはできない。
だからわたしは、エドガーを信じたい。
そう願って、いくつものドアノブをまわした先のこと。
いきなり、エドガーが顔を現したのだ。
あ…。
覚悟というものができてなかった。心が無心ではなかったからだ。
エドガーも、突然の訪問者に驚きを隠せないようだ。
しかし、その顔は一瞬にして陰湿な笑いを含んだ。
「ディオンヌ、まさか君が戻ってくるなんて、思ってもみなかったよ」
エドガーは、あのときと同じように安楽椅子に座って本を読んでいたようで、その本をたたんで立ち上がると、こちらに向かってきた。
もしかしたら、抱きしめられるかもしれない。
と思っていたが、一瞬にしてエドガーはディーンの腕をひねると、そのまま強く引っ張って、テーブルへと押し付けてしまった。
「うぅ…」
また裏切られた。信じたわたしが悪かったんだ。
ぐいぐいとテーブルに押し付けられる。ほほにあの本が当たって痛い。
くそっと、目を開けると、その本のタイトルが目に入っていた。
「永遠の忠誠をあなたに」
エドガーは、声を荒げてひとを呼ぶ。
「おい、だれか! 泥棒を捕まえたぞ!」
その声に気づいて、カーンが走ってやってきた。
そして、この光景を見て、ほうと、感嘆の声を漏らした。
「大手柄じゃないですか、エドガー中佐」
しかし、カーンもそこまでバカじゃなかった。
「大手柄過ぎて、なんだか喜劇のようですね」
カーンは、眼鏡をくいっと直す。
「まあいいでしょう。さっさと牢屋に入れることです」
そういうと、カーンはあっさりと部屋をあとにした。
エドガーは、元に戻るだろうか?
しかし、エドガーはさっきよりも辛くディーンに当たるのだ。
「お前が逃げたせいで、危うくわたしたちの計画が台無しになるところだった」
ぐいぐいと、ディーンの腕を締め上げる。
「さあ、お前には牢屋が似合っているんだ。ぶち込んでやる」
エドガーは、懐から縄紐を取り出すと、ディーンの腕を後ろで締め上げて固定した。
そして、うつぶせにされていたテーブルから力任せに引っ張りあげられると、あるものがその目に飛び込んできた。
仮面…。
ディーンは、自分のバカさ加減に腹が立った。
エドガーは盗聴されていたのだ。ジーザス・クライストによって。
ともあれ、ディーンは逆らえず、そのまま牢屋へと入れられる形となった。
なんとなく、茶番のようでもあるが。
牢屋の中で、ディーンは考えていた。
わたしにできることは、なんだろう。
前回同様、牢屋から抜け出すことは、とても簡単なことだ。
しかし、この牢屋を抜け出して、いいことはひとつもなかった。
だとしたら、エドガーの計画の中では、わたしは牢屋にいるべきなんだ。
エドガーとカーンが、夜食を運んできた。
牢屋の中へは、カーンが入ってきた。
手には鉄でできた杖を持っている。
カーンはそれでもって、いきなりディーンをぶった。
その重い一撃で、ディーンは床に倒れこんでしまった。
カーンは見下すようにしながら、鉄の杖の先をディーンの腕へと添える。
「一本くらい折っておいたほうが、いいと思うんですよ。こんなじゃじゃ馬」
ディーンならば、この鉄の杖を奪って反撃することもできただろうが、それではエドガーの計画に響くだろうと思って、なすがままにされる覚悟を決めた。
鉄格子の後ろから、エドガーの声が聞こえる。
「この女は聖体として扱われるんだ。腕の一本へしおれた女神を、民衆はおかしいとは思わないか?」
ああ、かばってくれてる。
カーンはゆっくりと鉄の杖をどかすと、
「それもそうですね」
と、素直にそれに従った。
わたしを守るために、エドガーはまたカーンから疑われたのだ。
ふたりがいなくなったあと、牢屋の中でディーンはひとりすすり泣いていた。
「霧の古城を目指す前に、注意しておきたいことがある」
バルトがそういった。
「いったとおり、霧の古城にはカーン・レミントンやエドガー・マジェスタといった軍事院のお偉いさん方がやってきている。これをどう見るか個人の判断として、おれはこんなやつらは大抵、やばいことを考えてるもんだと思ってる」
レオンがそれにうなずく。
「軍事院から目をつけられたら命はない。それでもおれはヨシュアに会いたい。これは危険な橋だ。分かったか」
どうやら、自分の意志を変えるものはだれもいないようだ。
ルビィもレオンに注意をする。
「あなたはもう戦える身体じゃないのよ。でもきっとなにかあったらあなたは戦うでしょう。だから医者として、一度だけ戦うことを許可します。それと約束してほしいことは、もし戦うことになったら、あんな無茶な戦い方はやめて。バルトさんだっているのよ。力を借りましょう。だって、わたしたち仲間なんですもの」
仲間ということばに、レオンとバルトは一瞬、変な顔をした。
「仲間ねえ。まあそれでいいんじゃないの、おにーさん。ルビィちゃんがいったとおり、おれも銃でバカスカ戦うから、あんまり前にでるんじゃねえぞ」
バルトはさっと銃を構えて見せた。
レオンは相変わらず無愛想で何も語ろうとはしない。槍を抱えると、さっさと先を歩きはじめた。
「あいつはね、反論しないってことは、OKってことなんだよ」
と、バルトは教えてくれた。
「ところであの…」
ルビィには、どうしても聞きたいことがあった。
「レオンの過去って、どんなものなんでしょうか」
すると、バルトは極端に難しい顔になった。
「過去については、あいつの口から聞いてくれ。ただ…」
バルトはあごひげをなでながら、
「あいつにとっちゃ、生きるってことは生きてるってことと同価値なんだよ」
と、いった。
「それって…」
「おれたちのように過去にしばられちゃいないが、決して未来を見ているわけでもないのさ」
バルトは遠ざかるレオンを、哀愁のこもったまなざしで見つめている。
「生きてるだけで精一杯なんだよ、あいつは。だから自分の価値を求めて、あんな風に他人を救ってみたりしてるわけ」
だからさと、
「ときとして自分が正義のヒーローみたいに写っちゃうわけ。でもあいつは本質的に悪魔のような人間ぶってるから、その価値観の狭間で悩むことがあるのよ。あいつはそれを乗り越えられたら…、おれとちがって新しい人生を歩んでいけると思うんだがなあ」
まるで子供の身を案じる親のようだと、ルビィはそう思った。
バウンティハンター(賞金稼ぎ)として、世の中のもっとも暗いところで生きている人間にだって、こういった情はあるのだと気づかされた。
それにしても、レオンの身に起こったことは、どんなことだったのだろう。
そして、過去の自分に起こったこととは…。
もしそれを思い出してしまったら、わたしもレオンのようになってしまうのかしら。
いや…、わたしはレオンのように強い人間じゃない。
もうひとりのルビィに押しつぶされて、わたしは消えてなくなるかもしれない。
耐えられるかしら…。
でも、あのひとは自分の悲しみに耐えられないまま、何年も霧の古城にこもっている。
それを救ってあげないと。
もしかしたら、わたしが霧の古城を目指すのはバルトさんと一緒で、自分を犠牲にしてでもあのひとを救いたいと思っているからなのかもしれません。
霧の古城の中を甲冑が歩く。
がしゃんがしゃんと、一階を巡回して、中庭のあの石碑の前へとやってくる。
フローライト。
ルビィ・フローライトと刻まれた、その石碑。
まわりには花が咲き乱れ、それはまるでメモリアルストーン(墓石)のように見える。
それが何を意味するのか、だれも分からないでいる。
視点を三階に移すと、そこには悲劇のマッドサイエンティストがいた。
彼は、宝石でできた板を手にもって、じーっと眺めている。
しきりと口を浅く開いているようにみえるが、声を発しているわけではないらしい。
これが彼の日課のようなものなのだ。
どのような価値があるのかは知らないが、よく見るとその宝石の板には紋章のようなものが刻まれている。
トネリコの民が使う札のような。
ジーザス・クライストは、その板をいつまでも眺めていた。
まるで、だれかと無言の会話をしているかのように…。
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