「んもう、いや!」
金髪の女が地面にかがみこんだ。
男は、後ろをふりむくと、眼鏡をくいっと直しながら。
「駄々をこねるのはやめてもらえませんか」
と、女を見下しながら、辟易した調子でいった。
「だってぇ」
女は、髪をくるくると指でいじりながら、
「ドレスのすそが汚れるんだもの」
と、いった。
女は、純白の夜会服を身にまとっている。
ずっと森の中を歩いてきたので、ハイヒールはもうどろだらけ。
「おんぶして!」
「……」
男は、また眼鏡をくいっと直すと、向き直って歩きはじめた。
「ケチ!」
女は、立ち上がると、男のあとを追った。
あれから、どれだけの距離を歩いただろう。
森の奥に入るにつれて、段々と霧が濃くなってくる。
「カーン・レミントンさん」
「名前で呼ぶの、よしてくれませんか」
女は、男のコートのすそを、ぎゅっと掴んだ。
「迷子になると困るの」
男は、何もなかったかのように歩いている。
そのまま、しばらく歩いてから、女は男に話しかけた。
「ねえ、カーンさん。彼にはいつになったら会えるの?」
「もうすぐです」
「もうすぐって、いつよ」
「古城についたらです」
「だーかーらー、古城にはいつ着くのよ!」
男が立ち止まる。
「わがままいうの、やめてもらえません? エドガー中佐に会わせませんよ」
男は、するどい視線で、女を睨みつけている。
「んもう、フェミニスト(女性尊重)のくせに、ぶっきらぼうなんだから!」
そのとき、目の前の茂みがガサゴソと揺れた。
女は、驚いてとっさに男のかげに隠れた。
「な…、なに…」
すると茂みの中から、一匹の狼がぬっと顔をだした。
「きゃ!」
女は、男の後ろに隠れながら、その背中にしがみついた。
それを振り払うようにして男は女をよけると、狼にゆっくりと近づいていった。
そして、その狼の頭をやさしくなでるのである。
「もうすぐ中佐に会えますよ」
女は、その光景がいつまでも信じられないようすだった。
狼に先導されながら、男と女は森の中を進んだ。
女は、ずっとハイヒールで悪路を歩いたものだから、相当くたびれたようすであった。
境界線を越えたのだろう。次第に霧が晴れてゆく。
そして、目の前に飛び込んできたのは、見事な古城であった。
「これが、霧の古城…」
とても古い石造りのお城のようだが、むしろ頑健といえる代物だ。
まわりをぐるっと堀で囲んでおり、入り口は昇降式の橋がひとつだけ。
女は、あまり堀というものを見たことがなかったので、近づいて中をのぞいてみた。
堀というものは、敵の侵入を防ぐために、地面を深く掘ったものである。そこに水を入れるのが一般的で、この堀にもかなりの水が入っている。
きっとこの水が蒸発して、霧を作っているんだろうなと、女は考えた。
水の中には、魚が住んでいるくらいで、特に変わったこともない。
「お堀がそんなに珍しいんですか」
男は、橋の真ん中あたりから女に、冷ややかな調子で声をかけた。
「ええ、こんな古めかしいお城ですもの。どこかに魔法がかけられているかと思って」
と、女は答えながら、男のあとを追おうとした。
そのとき、水の中でポチャッと、音がした。
「?」
女は、それが気になって、もう一度しゃがみこんで、水の中を確かめた。
ぶくぶくぶくと、水の底から泡が上がってくる。
女は、なんだかそれに不気味なものを感じた。
すると、その泡の中から、一匹の魚が飛び出してきたではないか!
「きゃ!」
魚は、地面に横たわると、器用に身体を動かして、森の方へと向かっていく…。
しかし、次第にその動きは鈍くなって、ついに息絶えてしまった。
女の心の中に、いやなものが広がってゆく。
城の中は、人間が住んでいるという感じが一切しなかった。
玄関は、とてもほこりっぽくて、手入れをされたあとがない。
廊下は薄暗く、男は手燭をもって、あたりを照らした。
狼につれられて、階段を上る。
階段には、えんじ色のカーペットが敷かれているが、もうボロボロである。
二階の廊下は、正面に面しており、ずらーっと窓が作りつけてあった。
窓から差し込んでくる光だけでも、女の圧迫感を軽減するのに少し役立った。
狼は、二階のとある一室の前で、立ち止まった。
男は、その部屋のドアをノックすると、ひと呼吸待ってから、ドアを開けた。
「中佐、お待たせしました」
部屋の中では、ひとりの男が読書をしていたらしく、肘掛け椅子に座って、楽にしていた。
その男は、本をたたむと、やってきた女と目を合わせて、
「やあ、ディオンヌ。よくきたね」
と、女の長旅をねぎらった。
ディオンヌは、そのことばにすべてが報われるような気がしただろう。
「エドガー、わたし、わたし…」
ディオンヌは、エドガーに抱きついた。
カーンは、抱き合う男女の姿を見て、目をそらした。
「怖い思いをしたかい?」
「いえ…、あなたのためにここまでやってきたの」
「そうか、礼をいわなくちゃならないな」
「当然のことよ」
ディオンヌは、涙ぐんでいた。
エドガーは、ディオンヌをそっと押しのけると、丁寧な礼をした。
「キスじゃなくて」
「人前じゃ恥ずかしいだろ?」
と、エドガーはディオンヌをもう一度抱きしめる。
やれやれと、カーンは頭をふると、
「ちょっと散歩でもしてきます」
といって、部屋から出て行った。
部屋から追い出されたカーンは、すぐそこの二階の廊下の窓際で、自分の使い古した手帳をひらいていた。
「エドガー・マジェスタ…」
未だに信じられないのだ。
軍部のエリートが、我々の計画に加担しているということが。
「このクーデターに、将来を有望される男が、本心から加わるなんてことがありえるだろうか? いやしかし…」
視線を感じて振り向くと、真後ろにちょこんと、あの狼が座っていた。
いつもそうだ。
計画をはじめてから、この狼がいつもおれを監視している。
「ジーザス・クライストの犬め…」
カーンは、狼を見下しながら、眼鏡をくいっと直した。
それにしてもと、またエドガーのことを考える。
「聖体は用意した。軍部が敵であったとしても、出し抜きさえすれば、おれの勝ちだ。切り札さえ隠し通せれば…、すべてはうまくいく」
この男は、昔から賭けが上手かった。
カーンは、眼鏡を外した。
そこには、一点を見つめる、勝負師の眼があった。
極限の緊張にのまれず、最後には自分だけが得をすればいいと誓う、男の眼であった。
「今、サイコロはジーザス・クライストが持っている。あいつがいつサイコロを振るか、そしてその動きにあわせて、おれがどれだけ動くか、それが今回の勝負の分かれ目。そして、勝者に与えられるものは…」
カーンは、打ち震えている。
「しかし…」
カーンは、自分の考えをことばにするのを、一度ためらった。
「しかし…、本当にエドガーは、あの女をささげるつもりだろうか?」
癖だろうか。考える時、彼は足をとんとんと打つ。
「D2計画に…」
そこがエドガーを敵と見るか、味方と見るかの境目になるかもしれない。
カーンは、眼鏡をかけ直すと、外の景色をぼんやりと眺めはじめた。
「なんてことをするの!」
女の悲鳴があたりに反響する。
ディオンヌは、しっかりと両手を縛られ、身動きを封じられていた。
「ねえ、エドガー!」
ディオンヌは、哀願するように男を見つめる。
「わたし、あなたのことを愛しているのよ!」
エドガーは、くっくと肩で笑う。
「ぼくのことを愛しているのなら、ぼくのために役に立ってくれ」
ディオンヌは、エドガーにすりよる。
「や、役に立つわ! こんなおかしなこと以外で!」
男と女は、鉄格子で分け隔てられている。
「おとなしくこの牢屋に入っていろ」
「そんな! わたしをどうするつもり!」
ディオンヌは、涙を流しはじめた。
それをみたカーンは、思わず顔をそむける。
「きみはいずれ、すばらしい存在の一部になる。それはとても光栄なことなんだ」
「すばらしい存在って…」
デュオンヌは、エドガーの目を見た。
このひと…、狂っている。
ディオンヌの頭には、ここに至るまでに見てきた、沢山のおかしなことが思い浮かばれた。
もはやこのひとは、わたしのことばなどに、聞く耳を持たないだろう。
「愛していたのに!」
裏切られたのである。最悪の形で…。
「愛していたのに!」
ディオンヌは、がんがんと鉄格子に頭をぶつける。
そして、静かになった…。
「愛するきみに、永遠の別れを」
エドガーは、牢屋をあとにした。
カーンは、考えていた。
どうやら、自分の取り越し苦労だったらしいと。
カーンは、ディオンヌを一瞥してから、エドガーにつづいて牢屋をあとにした。
騎士を模した甲冑が、廊下を歩く。
人間のようにスムーズに歩くことはできないので、鈍足で不恰好な歩き方だ。
ドシドシと、床を踏み鳴らしながら、二階のあの部屋に入ってゆく。
「ほう、これは珍しいものをみた」
エドガーが、感嘆の面持ちで、座りながらそれを眺める。
同室していたカーンが、その甲冑に近寄って、手から手紙を受け取った。
それを一読してから、
「ジーザス・クライストがおよびです。行きましょう」
と、エドガーをうながした。
ジーザス・クライストとは、神の名前である。
この古城の主は、自らを神と呼んでいるのだ。
三階の一番奥の部屋が、ジーザス・クライストの部屋になっているが、ここは巨大な鉄の扉で守られているので、あちらから呼び出しがないと、こちらからは決して入ることのできない作りになっている。
その鉄の扉のカギが、今はかかっていなかった。
カーンは、一度中に入ったことがあるので、鉄の扉を難なく開けてみせた。
中は真っ暗である。窓ひとつない。すれたにおいがする。
ジーザス・クライストは、マッドサイエンティストだと聞いていた。
生命をもてあそぶ悪魔だとも。
いずれにせよ、この古城の主は、わたしにとって、かけがえのない友人のひとりになりそうだ。
D2計画。
この計画が成功すれば、わたしは、わたしは…。
その部屋の中は、あまりに暗すぎて、彼の顔を見ることさえできなった。
D2計画とは。
ディア・ディバード(親愛なる女神)計画の略である。
神話の女神を降臨させることにより、共和国を再度統一する。
その女神の降臨のカギを握っているのが。
この古城の主、ジーザス・クライストである。
暗闇から声が聞こえる。
エドガーとカーンは、耳を澄ませて聞いていた。
「こちらから提供した、ハウンドリカオンのようすはどうだ」
エドガーに対する問いである。
「軍用犬の再強化プランはわたしの手柄になった。礼をいう。それと、わたしにあなたを紹介してくれたカーン君にも、ここで礼をいっておこう」
と、エドガーはカーンに向かって、礼をした。
いやいやと、カーンは手をふりながら、
「これも運命かなにかのめぐり合わせでしょう」
と、エドガーとジーザス・クライストの間を取り持った。
暗闇からの声は、しばし沈黙したあと、こう続けた。
「女神をみたいか?」
あまりに直球過ぎる質問に、カーンは肝を潰された。
エドガーが答える。
「女神がみたいかといわれたら、はいと答えるが…、女神になるべきひとは、今、牢屋に閉じこめてきたばかりなのだが?」
そう。計画ではディオンヌの身体を聖体として、女神を作り出す予定なのだ。
暗闇の声は、しばし無言になる。
そしていきなり、大声でこういった。
「セットアップ(起きろ)!」
暗闇の中に、宝石のようなふたつの輝きが、まるでランプが点くように現れた。
その輝きは、どうやらこちらを観ているようだ。
「スタンドアップ(立て)!」
そのふたつの輝きが、膝丈のあたりまで、すっーと持ち上がる。
「ウォーク(歩け)」
じりじりと、こちらに向かってくる。
エドガーは、つばを飲み込んだ。
やがて、そのふたつの輝きが、こちら側からの光の届く位置までやってきた。
それは…、どこからどう見ても、狼であった。
「これが…、女神…」
エドガーは、驚いたようだが、カーンは、からかわれた気分になった。
「こんな毛むくじゃらなお姫さまに、民衆がついてきますかねえ?」
はっはっは…と、暗闇から笑い声が聞こえてきた。
エドガーは、すでに気づいていた。
狼の目の前で指を動かしてみる。何の反応もない。
「この狼…、命令に服従しているんじゃなくて、音声を認識して、動いているんだ」
暗闇からの笑い声が止まった。
「これを人間に応用すれば…、見えてきたぞ」
「なるほど」
これにはカーンも、納得せざるをえなった。
「ようはD2計画の本質はパフォーマンス(大衆陽動)でしかないのだから、これで半分以上は事足りると。音声を認識して声帯を動かすようにすれば、演説だってできるし、身振り手振りも加えることもできそうだ…」
しげしげと、狼を見つめるカーン。
「名前を、ドール・ディバード(人形姫)計画に変えたほうが、しっくりきますね」
カーンは、ひとりでニヤニヤしている。
ようは、この操り人形の使い方次第で、この計画の成果は左右されるのだ。
そして、そういったことを考えるのは、カーンの得意分野なのだ。
暗闇の中から声が聞こえる。
「調整に手間がかかる。しばし待て。あと、聖体は死なせるなよ。…シャットダウン(停止)」
狼の目の輝きが消えた。まるで息もしていないようだ。
それ以降、向こうから声が聞こえることはなかった。
どんな世界にも隠語は存在する。
ましてや、国のことが影で動いてる最中であれば、なおさらのこと。
「愛していたのに!」
エドガーは裏切った。
しかし、本当に裏切ったのだろうか。
これが彼なりの最善の選択であったということはないのだろうか。
この決断を誤ってしまっては、すべてが瓦解しかねない。
ディオンヌは、牢屋の中で考えていた。
愛は忠誠を意味する。
あの男は確かに、
「愛するきみに、永遠の別れを」
と、いった。
そして、あの発狂したような眼。
あそこまで、演技のできる男だったろうか。エドガー・マジェスタは。
あちら側に取り込まれてしまったのだろうか?
それとも、元からあの男には二心があったということなのだろうか。
しかし、そうだとしても、軍部在籍の何十年間も素行不良があばかれないということは、暗部の仕事の正確さからして、不可能なことだ。
わたしは…、わたしは…。
下手をすれば、ここで命を捨てることにもなりかねない。
しかし、エドガー・マジェスタの命と、わたしの命の重さを比べることなど、一番滑稽な話ではないか。
そうだ、ディーン。わたしは生き残りたいんじゃない。
裏切り者を抹殺しないと、職務に関わるだけだ。
だから…、エドガーは本当に我々、軍部を裏切ったのか…。
わからない…。
「ぼくのために役に立ってくれ」
このことばは、あえていう必要はなかっただろう。
役に立ってくれ…、役に立ってくれ…。
どっちなんだ…。
結局…、キスしてもらえなかったな…。
案外、楽しみにしていたんだけど…。
うちらうつらと、デュオンヌは眠りに入りそうになる。
そのとき、エドガーのあることばが思い出された。
「人前じゃ恥ずかしいだろ?」
がばっと、ディーンは目を覚ました。
このことばが意図することは、あの部屋に居合わせた、カーンを警戒しろという命令だ。
わたしはこれを、カーンを退出させる口実だと、今の今まで思っていた…。
やはりエドガーは、敵側に寝返ったわけじゃない。
わたしはそう…、信じたい。
たとえ、騙されたとしても。
決断したあとの行動がはやいのが、暗部女諜報員ディーンの持ち味である。
ハイヒールのかかとの部分をすっと外すと、そこには仕込み刃が入っていた。
それでもって、ロープを切断し、ひとまず両腕の自由を確保する。
しかし、これで後戻りができなくなった。切れたロープは元に戻らないからだ。
身にまとっていた純白の夜会服を、動きやすいように切って調整する。
それと…、鏡で自分の顔を見るのも忘れない。
そのあと、髪からヘアピンを外して、それを使ってすばやく錠前を破ると、ディーンは牢屋を脱出した。
牢屋からでると、そこは城の中庭だった。
花や草が、無造作に咲き乱れている。
城の中から人影がでてきたように見えて、ディーンは草むらに伏せて隠れた。
その人影は、ドシドシと音を立てて、ディーンのすぐ近くまでやってきた。
それは、騎士を模した甲冑だった。
中にひとが入っているのかしら?
ディーンは、息を殺して隠れる。
やがてその甲冑は、ドシドシと自らが重そうに、城の中へと戻っていった。
あの甲冑は、何を見ていたんだろう。
ディーンは、甲冑が止まったあたりを確かめてみた。
そこには、ひとつの比較的あたらしい墓碑が立っていた。
名前を読んでみる。
そこには、フローライトと刻まれていた。
フローライトというのは、宝石の蛍石のことである。
しかし、これが何を意味するのか、ディーンには分からなかったし、わかる必要もなかった。
今はとにかく、この古城から脱出して、形勢を立て直すことを考えないと。
甲冑がいなくなったことを確かめると、ディーンは風のように音も立てず、城の中を駆け抜けた。
ディーンは、城の入り口まで帰ってきた。
しかし残念ながら、いつの間にか昇降式の橋が上がっていたのである。
堀の幅はかなりあって、どんなに身体を鍛えているディーンであっても、飛び超えることはできない。
堀の中を泳いでいくこともできるが、身体を濡らしてしまっては、逃げるのに不都合なこともあるのだ。
脱出するまで、あとわずかではあるが、ディーンは城の中に戻ることを余儀なくされた。
しかし、ディーンは諦めたわけではなかった。
堀の水の上を渡ることができれば、発想としては大丈夫なのである。
なにかを渡して、その上を渡れば。
ディーンは、そのような訓練も受けているので、それに必要なものを、城の中で調達することにしたのだ。
城の中では、あの甲冑が絶えずあたりを警戒していることに気がついた。
ディーンは、城の中を隠れながら、あるものを探して歩く。
たとえば、暗がりになっているところや、カーテンの中、空いている部屋の中を利用しながら、である。
野生の動物なども、いるとわかっていれば見つかるものだが、その存在がいるのかいないのかわかっていないと、なかなか単純なところでも気づかれにくい。
そんな調子で、城の一階を探し回っているうちに、ディーンは目当てのものを探し当てた。
それは、蝋や油脂で煮詰めた動物の皮でできた、軽めの皮の鎧であった。
この鎧とはそもそも、何百年前の戦争のときに開発されたもので、水の中でも自由に動けるように設計されているのだ。
城というものは、戦争のときに使うものだから、たぶんあるはずだと思って探してみたのだが、彼女は時間ぎりぎりのところで、それを探し当てることができたのだ。
もちろん、それを身につけて泳ぐわけではない。
ディーンは、その皮の鎧を手際よく解体すると、一番大きい胴の部分をもって、城の入り口まで引き返した。
「まさか、わたしが古典武術を使うことになるとは、思いもしなかったわ」
そういって、もってきた胴の皮を水に浮かべると、なるべく掘の中間あたりにまで行くようにして、静かに押してやった。
水面を胴の皮がゆらゆらと、ゆっくりと流れていく。
これを陸にして、ジャンプすればいいのだが、それでは皮が沈んだ時に、衝撃の分だけ水が波打って、音を立ててしまう。
それをなんとかするのが、古典武術なのである。
ディーンは、胴の皮の流れる先を確認すると、目をつぶった。
感覚とタイミングがすべての技なので、目をつぶったほうがやりやすいのだ。
しばらくして、ディーンは舞うように跳んだ。
それはまるでバレエダンサーのように、しなやかな跳び方だった。
太極拳のような、極限の体重移動。
ディーンの足が、胴の皮を踏む!
しかし胴の皮は、大きな波紋を発生させない限界のところまでしか沈まない。
その瞬間、確かにディーンはその胴の皮の上に、片足だけで立っていた。
しかし、胴の皮が人間の重みに耐えられるはずもなく、沈んでいく。
だから、それが沈みこむ前に、片足だけでディーンはまた跳ねたのだ。
それは、とても不自然な筋肉の使い方だった。
筋肉というより、筋と腱と間接だけで、もう一度跳んだのである。
それはまるで、着地するはずの人間がまた、ふわりと空中に浮くような。
ストン。
ディーンは、ゆっくりと目を開く。
それはまるで、夢から醒めるような、目の開け方だった。
ともあれ、ディーンは無事、堀に渡ることができたのだ。
それを確認すると、自分でもほっとしたようだ。
ディーンは、音も立てずに、森の中へと消える。
暗部の諜報員には、これほどまでに徹底した無音を求められる。
それはあたかも、初めから存在しなかったかのように…。
牢屋からディーン、もとよりディオンヌが脱出したとは、まだだれも気づいていないことだろう。
いずれ気づかれるにしても、その間にできることは、この女諜報員には意外と沢山あるのだ。
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