カツカツと、石の階段を踏み鳴らす、ふたつの足音が聞こえてくる。
エドガーとカーンが、ディオンヌに与える夜食を持ってきたのだ。
しかし、牢屋の中はすでに空っぽであった。
カーンが慌てて鉄格子の入った扉を調べてみると、カギが外されているようで、その場ですぐに扉を開けることができた。
「これは…、どういうことですか」
カーンは、猜疑心のこもった目で、エドガーを見つめる。
「どういうこととは?」
「ふざけないでください」
カーンは、眼鏡をくいっと直す。
「あなたが手引きしたんですか」
「そんなことをして、わたしが得をすると思っているのか」
カーンは、頭の中でいろいろなことを考えてみた。
しかしやはり、答えはこれしかない。
「あの女が、暗部の人間であったなら、説明はつきます」
カーンは、眼鏡をくいっと直す。威嚇しているのだ。
「そうだったかもしれない」
そういうと、エドガーは牢屋の中に入って、あたりを見渡してみた。
「この手際のよさ、暗部の人間にちがいない」
エドガーは、カーンを睨みつけると、
「わたしを殺しにきた、な」
と、いった。
そのことばには、カーンも一理あると思った。やはりカーンも、仲間をある程度は信じたいのだ。もちろんある程度以上は、決して他人を信じたりはしないのだが。
「わかりました。ひとまずこの事件に関しては、保留にしておきましょう。ただし、女神の聖体となる人間がいなくなったことは問題です。それに、我々の計画が外に漏れたかもしれないことも」
カーンは、また眼鏡をくいっと直した。
「この失態を取り戻す気があるなら、早急に対処してください。今度は自分の愛人以外の女を連れてくるのですよ」
カーンは、軽蔑したようにエドガーを見たあと、ひとりで階段を上っていった。
暗部の人間が介入しはじめたことには、薄々気がついていた。
それでも、あのディオンヌがまさか暗部の人間だとは、思いもしなかった。
彼女は隙だらけだったし、それにしっかりとエドガーの愛人を演じていた。
暗部とは、軍事院直属の裏の世界で動くやつらだとは知っていたが、それを少し侮っていたかもしれない。
それに、軍事院の中佐であるエドガーが、暗部を指揮していてもおかしくはない。
もしかしたら、エドガーはおれを殺すために、スパイを演じているのかもしれない。
と、カーンは疑心暗鬼を膨らませていた。
でも、エドガーのことばどおり、彼のクーデターを阻止するために、暗部が動いたとも考えられる。
もしそちらが正しかった場合。それを考えると、何事にも慎重なカーンは、やはりエドガーはまだ泳がしておくべきだと、考えるのであった。
いずれにせよ、狐と狸の化かし合い。
それに、エドガーとカーン、生身でどちらが強いということを考えると…。
やはりカーンは、まだ自分が優勢だと思うのであった。
ディーンには、ひとつの作戦があった。
暗部の任務は、必ずふたり同時に与えられる。
これは単純に成功率を高めるためである。
しかし暗部では、秘密保持のため、仲間同士であっても顔を見せ合うことを禁じている。
よって、協力するということは滅多にないのだが…。
ディーンは、ここで撤退するよりは、もうひとりの暗部の人間を探して、協力して任務に当たったほうが任務を遂行できる可能性が増すと考えて、特例でもってこの任務は、ふたりで協力して当たろうと、もうひとりの暗部の人間に、嘆願するつもりであった。
ディーンは、支給された地図を頼りに、自分なら利用するだろう場所を探しまわった。
それは、樹のてっぺんであったり、川の近くであったり、森の中のキャンプのできる場所であったり、そもそもこんな辺鄙な森の奥に一般人がいるはずもないので、人影さえ見つけたらそれが黒だと思っていた。
そしてディーンは、とある山小屋の前までやってきた。
すぐに気づいたことは、山小屋の正面に、あたらしいまきの燃えカスが、山のように積まれていることだった。
「いるのかしら」
ディーンは、山小屋の中に入る。
ひとの気配がする。
ディーンはすぐに気がついた。女がベッドに横たわっていることに。
しかし、違和感があるのだ。
もしこの女が暗部の人間であったなら、こんな目立つ山小屋で、昼過ぎまで熟睡しているということがありえるだろうか?
それに、この女が一般人であったなら、顔を見られることはタブーだ。
起きる前に立ち去るか。それとも…。
女が寝返りを打つ。
その目はすでにパチっと開いており、ディーンの姿を目撃していた。
「あなたは…」
寝ぼけまなこのルビィではあるが、それが人間の女であることはすぐ分かった。
ディーンはとっさに顔を隠したが、これがすでに完璧な証言になることを察して、もはや逃げることは考えなかった。
「あなたこそ、ここで何をやっているの」
ディーンは、ルビィに問いかける。
ルビィは、ベッドの中で身体のだるさを感じながらも、それは自分には答えにくいことだと思っていた。というのも、頭がまだぼーっとしていて、考えがまとまらないからだ。
「わたしは…、旅の医者です」
ディーンは、相手が一般人だったことに苦さを感じていた。
ルビィは、ゆっくりと上体を起こすと、すぐにある疑問にぶつかった。
「あれ、わたし昨日は…、森の中でキャンプしたはず」
ルビィは、記憶をたどる。それが徐々に形になってきて。
「あ、あの男のひとは…」
きょろきょろとあたりを見渡すルビィを、ディーンはやさしく見守っていた。
どうすればいいのか、ディーンは必死で考えていた。この女医とであったことが、任務に差し支えてはいけないと。
ルビィは、やっと頭を整理して、ディーンに問いかけた。
「あの、すみません。黒ずくめのマントの男を見ませんでしたか? キズだらけなんです。ちかくにいると思うんですけど…」
そのあと、ルビィは頭をぺこりと下げると、
「この小屋、勝手に使ってしまって、すみません。でも、とっさのことで、怪我人もいたんで、やむをえなかったんです…」
と、丁寧にあやまった。
「ああ、あのひとったら、まだ寝てなくちゃならないのに」
そこで、ルビィはもうひとつのことに気がついた。
今まで自分が眠っていたのは、あの男を寝かせたベッドだったのだ。
それに、昨日の夜はちゃんとベッドの中に入った記憶もないのに。
きっとあの男は、眠っているわたしを自分に代わってこのベッドに寝かせて…、だとしたら。
あの男は、医者から満足な治療を受けないまま、またどこかへと旅立ったんだわ!
「ああ、なんていうことでしょう!」
ルビィは、立ち上がると、窓から外の様子をうかがった。
「ああ、やっぱりあの男はどこかへと行ってしまったのね」
ルビィの態度を見ていたディーンは、さまざまな好都合があることに気づいていた。
まず第一に、うまくやれば自分があやしい人間だとは、気づかれないかもしれないということだ。
そして第二に、その黒ずくめの男こそ、探している暗部の人間かもしれないということだ。
「なにやら事情があるのかもしれないけど、山小屋を使ったことは気にしなくていいのよ。だって、この山小屋ってもとは観測用だけど、旅人が自由に使えるように作ってあるんですもの。それと…、黒ずくめの男? よく分からないけど、怪我をしているのよね。早く見つけないといけないと思うし、わたし、この付近には詳しいから、一緒に探してあげるわ。きっと、まだ遠くへは行っていないでしょう」
と、ディーンは、うまくルビィを化かしたのであった。
「狂犬病?」
「ええ、あのひと、狼に噛まれたから、それが心配なんです」
ディーンとルビィは、なぞの男の足跡を追って、森の中を歩いている。
「狂犬病には潜伏期間があるので、すぐに危ないってことじゃないんですけど、傷口が治った頃に発病するものだから、どこに原因があるのか、医者じゃないと分からないこともあるんです」
それにと、ルビィはつづける。
「あんな身体で休まずに歩いたり、槍をふりまわしたりしたら、きっと貧血を起こして倒れるにちがいありません。そうなったら、どんなに強くったって…」
きっと、野垂れ死にだろう。
「何をしようとしているのか分かりませんけど、自分の身体も大事にできないようじゃ、きっと何をしたって失敗します!」
ルビィは、少々むくれ気味だ。
しかしディーンは、それとは違うことを考えていた。
任務に忠実なところは暗部らしいが、気絶しているところや、旅行者の荷物を物色するあたり、果たしてこの男が本当に暗部の人間だろうかと、疑問に思ったのだ。
それに、女の手を引いて森をかけるあたり、あまり暗部らしくない。
その男が本当の暗部であれば…、この女はすでに狼に食われていることだろう。
「でもあなた、その男に命を救われているのよね」
と、ディーンがいうと、ルビィはハっとしたようで、自分の掌をながめながら、
「ふしぎな気持ちがします…」
とだけ、いった。
なぞの男の目的が何なのか分からないが、ディーンには、男が霧の古城を目指していることが分かった。
足跡を追いかけてみると、一直線にその方向を目指しているのだ。
なので、ここにきてディーンは、女を連れていることに疑問を感じはじめた。
もし、その男が曲がりなりにも暗部の人間で、すでに霧の古城にまでたどり着いていたとしたならば、この女は邪魔になる。
それに、男の居場所はハッキリしてきたので、もうこの女に用はない。
「ルビィさん、ちょっと休憩にしません。ちかくに川があるんです。もしかしたら、そのひともその川で休んでいるかもしれませんよ」
その女は、おとなしくついてきた。
川では休憩をとって、ふたりはルビィがもっていた乾パンを食べた。
陽はそろそろ傾き、森全体がオレンジ色になってきた。
川を場所に選んだのは、溺死がもっともバレにくいからだ。
こんな高低差のある森の中では、何かの拍子で川に落ち、そのまま溺れ死んでしまうことがある。
「となり、よろしくて?」
ディーンは、ルビィに近づく。
「あの…」
ディーンがルビィのそばに座ったとき、ルビィが唐突に話しかけてきた。
「わたし医者ですから、本当は一日も早く次の村にたどり着いて、多くのひとを診察しなくちゃならないんですよね。でも…」
ルビィは、ぎゅっと手をにぎった。
「使命より、自分を助けてくれたひとりのひとを救うのが、大事なような気がするんです…」
ダメですねと、ルビィはかぶりをふる。
運がなかったのね、この娘は。
ディーンは、がしっとルビィの両肩をつかむと、砂利だらけの川原の地面に、おもいっきり押し倒した。
そのまま馬乗りになって、ディーンは、ルビィの首を絞めはじめた。
ある程度、弱らしてから、川に浸けるつもりである。
ルビィの反発する力は、ディーンにとっては弱々しく、一分もすると、ルビィはこつんと気絶してしまった。
ルビィは、夢を見ていた。
男の名前を呼ぶ、あの夢を。
これがルビィにとっての、走馬灯なのだろうか。
結局、ルビィの人生には、この映像しか残らなかったのだ。
今のルビィなら、彼の名前を記憶の淵から、呼び戻すことができるだろうか。
ルビィはふと、何かを思い出したような懐かしい気持ちになった。
そうだった。
彼は、だれからも理解されなかった。
だから、自分を理解してくれない人間には、決して心を開かなかった。
彼は、こんなことばのかけられ方が好きだったんだ。
それはそっと、何気なく名前をつぶやくように。
わたしは彼を愛しているのだから、自然体でいいのよね。
ああ、やっとこっちを振り向いてくれるのね。
わたしの、愛しい…。
「あぶぁ…、あぶぅあ! あばぁ…、はぁはぁはぁ…、ああ…、ああ……」
ディーンは容赦なく、ルビィの顔を水面に浸けては、持ち上げるをくりかえす。
できるだけ、不慮の事故にみせかけて、もがいて死んだようにするために。
このような行為をしているとき、ディーンは無心を心がける。
残虐であればあるほど、可哀想だと思えば思うほど、自分も連れて行かれるからだ。
それはとても機械的な動きで、徐々に顔を水面に沈める時間を長くしていく。
もはや、ルビィの顔は苦しみを通り越して、苦痛を味わいながらも、見られたもんじゃないほど、ゆるみきっていることだろう。
彼女の口がパクパクと動いている。ひゅーひゅーと、空気を鳴らすような、か細い声である。きっと、だれかの名前を呼んでいるのだろう。
次がきっと、最後になるだろう。
ディーンは、時計を見るような感覚で、そう思っていた。
ディーンの両手に力が加わる。
そのとき、茂みの向こうからひとりの男がやってきた。
男は、その異常に気づくと、手に持った槍を構えて、すぐさま突撃してきた。
槍を払うように使って、ディーンを切りつける。
それをぱっと避けて、ディーンは即座に男と距離をとった。
男は、ルビィを川から引き上げると、呼吸をしていることを確かめた。
弱ってはいるが、懸命にか細く息をしている。
ディーンは、この男と接触するつもりでいたので、声をかけてみる。
「あなたが牙?」
牙とは、今回の任務を同時に受けている、もうひとりの暗部の名前である。
男は、ディーンを睨みつけると、
「そんなことはどうだっていい」
といって、ルビィをうまく呼吸できるように寝かしつけて、自分は槍を構えた。
「まるで王子さまね」
と、ディーンは男を皮肉った。
「二度も助けられて、きっとその娘、あなたにぞっこんよ」
男は、槍をするどく構えたまま、
「胸くそ悪りぃ」
と、はき捨てるようにいった。
構えた槍を下げないところを見ると、仲間だとは思ってくれないらしい。
だとしても、この男を他にして牙はどこにもいなかったし、お手合わせして確かめるしかないだろう。
ディーンも応じて構える。
それは徒手空拳の構えであった。
男は、ふと驚いたような表情をしたが、すぐに殺気をみなぎらせた。
この槍の長さを素手で制するというのなら、この女は少し自意識過剰なんだ。
男は、じりじりと間合いを縮めると、ぎりぎりの範囲から思いっきり槍を伸ばした。
ディーンは、その槍を紙一重で横に避けると、その槍を脇に挟んだ。
これによって、男は槍を封じられたわけだが、これは想定のことだし、引き合いになったら、腕力で負けることもないと、タカをくくっていた。
しかしディーンは、その槍を軸にして、ひねるように側転をした。
これによって槍は巻き込まれ、男の手元はひねられ、とてもじゃないが槍を持っていられなくなった。
男は、槍を手離した。
その結果、槍はディーンに奪われ、即座に川へと投げ込まれてしまったのである。
「どう、武器がなくちゃ戦えないでしょう。わたしの話しを聞いて」
男は、観念こそしていないが、今度はディーンの話しに耳を傾けるようだ。
「何の用があって、このあたりをウロついているの」
「おれは、霧の古城に用がある」
「それは答えではないわ。霧の古城にどんな用があるの」
男は、少し悩んだようだが、その問いに答えるようだ。
「おれは、ひとを探している」
この答えで、この男が暗部の牙でないことが分かってしまった。
どうやらディーンは、人違いをした自分に少し呆れてしまっているようだ。
張り詰めていたものが解けたので、虚脱感が襲ってくる。
この男にはもう用はない。
「じゃあもう死んで」
ディーンは、構える。
どうやら彼女は、この男を任務のために葬ってしまうようだ。
男は、しばし考えた。
槍は川に投げられてしまったし、この女は体術が得意だろうから、もうこれしか方法がないと。
男は、右手の手甲を見せるように前にして、ディーンをまねて、体術の構えをした。
「無謀ね」
ディーンは、その男の構えがあまりにも素人であることに、嘲笑を隠せなかった。
男は仕掛けようとしない。それは力関係を考えたら、当然のことである。
ディーンは、砂利の上でも構わず、すべるように男に近づくと、相手の胸倉を掴んで、おもいっきり地面に叩きつけた。
柔道である。
地面に叩きつけられた男は、受身も取れなかった。
そのまま上体を起こされ、連続で何度も左右に叩きつけられる。
男は、なんとか体勢を立て直して、ディーンに歯向かったが、足を取られて、ずでんとまた地面に叩きつけられてしまった。
よほど強い攻撃ではないものの、反撃もできない一方的な勝負なのだから、疲れるのは男のほうだけである。
ついに男は、うつぶせのまま、ダウンしてしまった。
ディーンは、両方の袖口から刃をとりだした。
あのハイヒールの刃を、今は服の中に隠してあったのだ。
この刃を突き立てれば、勝負は終わりである。
ディーンは、男の首の間接のなるべく頭に近い場所を狙って、刃を突いた。
男は、寝そべったまま首を曲げることによって、それを回避する。
一発、二発、三発。
刃はすべて砂利にあたり、男は一命を取り留めた。
「よくもまあ、見えもしない刃をかわせたものね。殺すのが惜しいくらいに。でも…」
ディーンは、馬乗りになって、男の頭を足で固めた。
男は、首を動かしてしきりに反発するが、決して逃れることができない。
ディーンがしきりに首の急所を狙うのは、死に逝くものの、目を見ないで済むからだ。
ディーンが刃を振り上げた、その瞬間!
男は、渾身の力をもって、起き上がった。
手を振り上げた瞬間だったので、ディーンは見事にバランスを崩してしまったのだ。
それにしても、見えないのにどうしてタイミングを合わせることができるのか。
それは男が何度も死闘を味わってきて、命のやり取りの呼吸を知り尽くしているからだ。
ディーンは、背中から地面に落ちた。
しかし、ディーンはとっさに受身をとって、立ち上がった。
その間に男は走る。走って、川に沈んだ槍を取りに行くのだ。
男は、槍を手にすると、そのまま川から動かなくなった。
ディーンは、しまったと思った。
いくら鍛えていても、流れる川の中では、どんな人間だってまともに足を運ぶことができない。足運びこそ体術の基本であり、それを封じられては、完全に強みを封じられたも同然なのだ。
男は、槍を構えたまま、川から決して動かない。
ざーざーと、川の流れる音が響く。
あたりはもう暗くなり、森の影が両者を一層見えにくくする。
ディーンは、これならと、砂利を掴んで男に投げつけはじめた。
しかし、砂利程度ではマントをかざすだけで、避けられてしまう。
今度は砂利に混ぜて刃を投げてみたが、やはり男はマントをかざして見えないはずなのに、ふたつの刃を見事、叩き落した。
沈黙の闇が、両者を更なる闇へと引きずり込む。
そして、ディーンは直感的に悟った。
この男が身につけているのは、真っ黒なマント。
夜の闇は必ず、この男に味方する。
もうすぐ、あたりは完全な暗闇に包まれるが、もしかしたら。
この男は、その中でも十分に戦えると思っているのかもしれない。
いやむしろ、その機に乗じて、必ず勝利をつかむつもりだ。
もはやすでにこの戦いは、ディーンの劣勢となっていた。
勝負を分けたのは、男が槍を取り戻す、ただそれだけのことだった。
男の眼がやけに光って見える。逆光を浴びているからだ。でも、それ以上にあの眼は野性的であり、夜にまぎれて獲物を仕留めようとする狩人の眼だ。
ディーンの身体に恐怖と悪寒が走る。
男が、槍を突き立てて、跳ぼうとした瞬間!
「やめてっ!」
ディーンは、崩れてしまった。
恐怖に負けたのだ。
男は、槍を使って高く飛び上がったあと、森の木の上に隠れて、木々をつたいながら、何度でも槍で奇襲を仕掛けるつもりであった。
むしろ、直感的に負けを認めたことは、ディーンにとっての上策であった。
ディーンは、しゃがんだまま、自分の両肩を抱き、地面をじーっと見ている。
これは敗北を示す行為であり、相手がよほど残酷で、目的が彼女の命を奪うことでない限り、彼女の命の補償はされる。
男はまだ槍を向け、流れる川に足をつけたまま、ディーンに問いかける。
「なぜこの女に手を出した」
ディーンは、顔を上げることなく、答える。
「邪魔だったから」
悔しいのだろうか、両肩をつかむ手に、ぎゅーっと力がこもる。
それはそうだ。任務最優先の女諜報員が屈服して、少なからず任務に関わる内容を話しているのだから。
「意味は理解しかねるが、この女にもう手を出さないというのなら、見逃してやる」
ディーンは思わず、顔を上げて男の顔を見た。
よく考えれば、この男は見ず知らずのひとりの女のために、命を賭けて戦ったのだ。
「なぜ、どうしてあなたはこの女を助けるの!」
男の詳細は、女医から少なからず聞いた。この男はどうして、自分の目的を果たすことよりも、この女を助ける道を選んだのだろう。
その問いに、男はなかなか答えなかった。
それは、男自身もうまくことばにできないからだった。
そして、やっと口にしたことばは…、
「しゃくだから…」
ぼそっと、それだけだった。
しゃくということは、腹が立つということだ。
ディーンは、しゃくでひと助けをする人間を、今まで見たことがなかった。
しかし、腹が立つということは、この男を正義の行動に走らせるものであるらしい。
だとすれば、この男はしゃくを感じたら、自分の目的も忘れて、どこへでも突っ走ってしまう、直情径行型の人間なのだろうか。
それにしても悔しい。
ディーンは、こんな感情だけで生きている無頼者に、自分の大事な任務を妨害されてしまったのだ。
思わず、歯噛みしてしまう。
でも、殺されそうな人間を見て、助けに入るのは常識的な行動だろう。
この男は、闇の世界に染まりながらも、そういった常識を持ち歩いている、とても珍しい生き物なのだ。
「わかった。この娘を殺すことがわたしの趣味じゃないの。約束するわ。だから…、先にあやまっとくわ。ごめんなさい」
男は、そのことばを頭の中でかみしめると、ゆっくりと槍を下ろした。
「じゃあわたし、どこかへいくけど、いい?」
「その前に、聞いておきたいことがある。お前は霧の古城に詳しいか?」
ディーンは、少しためらったが、はい、と答えた。
「霧の古城には、だれかいるか。例えば、男だ」
「男ならいるわ。三人もね。みんな悪いこと考えてる」
男は、ちょっと首をかしげたようだった。
「三人もいらない。名前は」
「それは…、ごめんなさい。わたしはそれに答えることはできないわ」
男は、その答えから、ディーンの素性を少し理解したようだ。
「ならば質問を変えるが、その男の中にバルト・ネイズという男はいるか」
ディーンは、いいえ、と答えた。
男はどうやら、そのバルト・ネイズという男を探して、やってきたようだ。
「それじゃもう用事はないでしょう。バルトさんによろしく言っておいて」
と、ディーンは立ち去ろうとしたが、
「お前のような女は、きっと周辺の詳しい地図を持っているだろうから、それを置いていけ」
と、男がいったので、ディーンはおとなしく地図を置いて、森の中へと消えた。
男は、ルビィを抱きかかえた。
ひゅーひゅーと、か細い声で、まだ何かを繰り返ししゃべっている。
男は、そっと耳を当てる。
それは本当に聞き取りにくいことばだったが、男にはそれを理解することができた。
「なんだ、男の名前か」
そんなことよりも、この状態が長く続くと身体に悪いかもしれない。
男には、医療の知識などこれっぽっちもないので、とりあえず寝かせることだと思っていた。
実際には、もっと的確な治療法があったのだが、それをこの男に求めるには、あまりにもこの男が無粋すぎた。
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