クリエーティブミュージアム

Mithril Bird

作品紹介   あとがき

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 ルビィは、ベッドから起き上がると、ふとあの夢を見なかったことに気がついた。
 連日連夜、繰り返しのように見せられていたあの夢が、彼と会った直後から、ぱたりと止んでしまったのだ。
 これも何かの暗示かしら。
 あのとき、もうひとりのルビィは、今までにないほどの強烈な強さでわたしを押さえつけて、表面化してきた。
 しかし、彼が「きみはもう死んだ」といった瞬間、しゅんと消え去ってしまった。
 もしかしたら、もうひとりのルビィは本懐を果たして、消えてしまったのかしら?
 でも、それなら、ルビィの心の中に残った、この冷えた感情はなんだろう。
「ヨシュアがあまりにも可哀想」
 泣くように、訴えかけてくるのだ。
 ルビィは、ぎゅっと拳を握った。
 これはわたしじゃない。わたしの感情じゃない。だって、わたしは彼と会ったことすらないのだから…。

 ドアが開いて、バルトが部屋の中に入ってきた。
 ふらふらと、魂の抜け殻のように精根尽き果てた表情をしている。
 バルトは、椅子に腰かけた。そして、
「教えてくれ、ヨシュアに何があった」
 と、哀願するように問いかけてきた。
 ルビィは、その質問に答えられないでいた。
 もうひとりのルビィなら、すべてを知っているのだろうけど…。
 質問に答える気のないルビィを見て、バルトはがっくりと肩を落とした。
 このひとは弟のために、自分の人生を捨てる覚悟でいたんだ。
 ショックを隠しきれなくて当然だろう。
 それにしても、ヨシュアのあの状態は、何なんだろう。
 あれは…、夢を見ているような、自分の世界に浸っているような…。
 彼の夢の世界では、彼自身と、もうひとりのルビィしか存在してはいけない。
 そんな感じだった。
 夢を見ているということは、いつかは目が覚めるということなのだろうか。
 もしかしたら、わたしは彼の夢を覚ますために、霧の古城へと導かれたのかもしれない。もうひとりのルビィによって。
 あの夢はどう考えても、わたしと彼を出会わせるために仕組まれたものだ。
 だとしたら、わたしと会ったことによって、彼の夢は徐々に覚めはじめているんじゃないだろうか?
 だから…、もうあの夢は見なくていいと。そのかわり、もうひとりのルビィは泣くように訴えかけてくる。
「ヨシュアがあまりにも可哀想」
 もうひとりのルビィは、もう一度、わたしと彼を会わそうとしている。
 そして…。
 わたしを押しつぶして、彼とやり直すつもりなんだ。
 それは直感的な発想だった。
 そう、もうひとりのルビィは死んだ。そしてわたしが生まれた。だから、彼女はわたしの身体を乗っ取って、人生をやり直すつもりでいるんだ。
 もう二度と、ヨシュアと会ってはならない。
 ルビィは、自分の身体をぎゅっと抱きしめながら、そう感じていた。

 霧の古城の三階。
 あの真っ暗闇の部屋の中で、古城の主はひとりつぶやいていた。
「聞こえない」
「どこへいった」
「ルビィ」
「聞こえない」
 右手には、あの宝石の板を握っている。
「ルビィ」
「どこへいった」
「聞こえない」
 ジーザス・クライストの目から、ひと筋の涙が零れ落ちる。

 ドアが開いて、男と女のふたり組みが部屋の中に入ってきた。
 ひとりはレオン、もうひとりは…。
 ルビィを殺そうとした、あの金髪の女だ。
 それを知った瞬間、ルビィは強烈な拒絶反応を起こした。
 驚き、怯え、すくみ、恐怖、さまざまな感情がルビィを襲う。
「あ…、あ…」
 まるで失語症の患者のようだ。
 それを見たバルトは腐ってもいられず、正気に戻ってルビィをなだめた。
「どうした」
 バルトは、問いかけるような目をしている。
 すると、レオンがルビィに近づいて、
「安心しろ」
 と、目一杯やさしい口調でいった。
 ルビィは、大きく見開いた瞳で、レオンをじーっと見つめる。
 レオンはそれを受け止める。
 そうやって、ルビィは徐々に安静を取り戻した。
「どうして」
 ルビィが子供のような口調で問いかける。
「あいつは金さえもらえば人殺しもするようなやつだが、金さえ与えておけば犬のように忠誠を誓う。だから安心しろ。おれがあいつを雇った」
 ルビィは、金髪の女を疑惑のまじった眼で見つめる。
「わたしはディーン。彼がいったとおりよ」
 本当は逆にも取れる契約(共同戦線)なのだが、ディーンはレオンに口裏を合わせた。
 それよりも、契約で帰還させるべき人間の中に、自分が殺そうとした女が混ざっているとは、夢にも思わなかった。
 この男は、あのとき助けた女をずーっと守って、ここまできたのだ。
 なんて、酔狂な。
 とはいえ、こういった行動のできる男だからこそ、今、どんなに屈辱に思っていても、過去のことは一時的に忘れて、わたしと手をつなぐことができるのだけれども…。
 ディーンは、決してルビィに近づこうとはしない。
 それがせめてもの配慮だと思うからだ。
 それを感じてか、ルビィはディーンに対する疑惑の眼をやわらげた。
 あとは、レオンがこの女の感情を整理してくれるだろう。
 ディーンは、腕を組んで、黙って立っていることにした。

 レオンは、ルビィとバルトに事情を説明する。
「おれたちは、軍事院の人間に見つかって、命の保障のない立場に立たされている。バルト、お前はそんなことを考えちゃいないだろうが、今はこの城から無事に脱出することを考えなくちゃならん」
 バルトは、はっと気づかされたようだ。
「そこで朗報だが、エドガー・マジェスタは、おれたちを見逃してやってもよいと考えているらしい。なぜならば、エドガーの本当の目的は、カーンとジーザス・クライストを秘密裏に処理することだからだ。すべての詳細はあの女から聞いた。エドガーもあの女も、軍事院のスパイとして、霧の古城にやってきたらしい。だから、エドガーはおれたちを口封じのために殺す必要がない。そもそも、計画とやらに加担していないのだからな。ただ、おれたちが邪魔になるようなら、真っ先におれたちを殺そうとするだろう。しかし、おれたちがエドガーに協力的な立場を取るなら、あいつはきっと、おれたちの自由を約束してくれる」
 レオンは、今の説明をふたりが理解するまで待った。そして、念を押すように、
「エドガーは、軍事院の命令でそれをやろうとしている。私心がない。ある意味で、分かりやすい男だ。信頼できる」
 と、いった。
 エドガーの目的は、カーンとジーザス・クライストの処理。
「エドガーは…、ヨシュアを殺しにきたのか?」
 バルトがいった。
 ああ、とレオンは答える。
「だとしたら、おれたちはヨシュアが死なないと、この城から生きて出られないのか」
 バルトは、心の底から、ふつふつと静かな怒りがこみ上げてきた。バルトの目的は、弟のヨシュアを生かすことなのだ。そのために命を捨てたって構わないとさえ思っている。
「そんなの、無茶苦茶だ。おれからすれば…、どちらかといえば、エドガーの方が敵に見える」
 そのことばを聞いてディーンは、きっ、とバルトを睨みつけた。
 レオンは、それを見せつけた上で、こう語る。
「少なからず、今はエドガーに協力しないと、危害を加えられる。それほどバカなことはない。感情は一時的にしまって、したたかになれ。らしくないぞ」
 そういわれては、バルトは納得せざるをえない。
「しかし…、ヨシュアに危害が及ぶようなら、おれはすぐに単独行動を取るからな」
「そんなことは分かっている」
 バルトは、レオンの目をじーっと見つめる。
 レオンの目は、こういっていた。
 好き勝手やるのは構わないが、うまく好き勝手やりたいのなら、仲間を作ることだ、と。
 それは、バウンティハンター(賞金稼ぎ)共通の理念である。
 仲間がいれば、自分の好き勝手が通る可能性も高まる。
 だが、好き勝手やるもの同士、最後は利益を共有することでしか、結びつかないのだ。
 バルトは、それを思い出して、より冷静になった。
 これは裏切りもありの共同戦線なんだ。それはあいつらの方がよく分かっている。加わるのに感情なんていらない。合理性さえあれば十分やっていける。
「分かったよ」
 投げやりではなく、バルトの本心からそのことばが聞けて、レオンもディーンも安心したようだ。

「お前はどうする、ルビィ」
 そう聞かれても、ルビィは戦えるわけではないし、うまく答えることができなかった。
 でも、ヨシュアが殺されるかもしれないとなると、胸が締めつけられるようだ。
 もうひとりのルビィが、よりしつこく心を締めつけてくるのだ。
 でも、わたしはわたし。それを貫くためにはヨシュアのことは忘れたほうがいい。じゃないと、もうひとりのルビィに心も身体も乗っ取られるかもしれない。
 しかし、そう思っても、なかなか決断できないものがあった。
 心の中で、もうひとりのルビィが泣き叫んでいる。
「ヨシュアがあまりにも可哀想」
 それは、ルビィが強行にヨシュアのことを忘れようとすればするほど、激しさを増してゆく。
「ヨシュアがあまりにも可哀想」
 もうひとりのルビィの泣き叫ぶ声を聞かされて、ルビィの心は張り裂けそうだ。
 行くも地獄、逃げるも地獄。
 ルビィは、頭を抱えて、ベッドの中にうずくまってしまった。
「大丈夫か?」
 レオンの声が聞こえる。
 はいともいいえともいえず、ルビィはただベッドの中にうずくまっている。
 苦痛をこらえることで、精一杯なのだ。
 すると、ディーンが、
「この子は戦えないのだから、この部屋にずっと閉じこもっていた方が安全だわ。それに、こんなに怖がっているのだから、連れて行っても邪魔になるだけよ」
 と、いった。
 ルビィは、そのことばを聞いて、苦痛よりも強い安堵感を手にしていた。
 そうよね。わたしが決めることじゃないもの。
「とりあえず、エドガーに会いに行きましょう。すべてはそれからよ」
 ディーンの号令に従って、三人は部屋から出て行く。
 レオンもバルトも、ルビィのことが心配だが、今は仕方がないといった表情だ。
 そして、ルビィは、ひとりになった。
 もうひとりのルビィの泣き叫ぶ声は大きくなるばかり。
 手に入れた安堵感は、塵のように消えてなくなり、さらに強い孤独という感情が襲いかかってくる。
 ルビィが孤独の中で感じていたことは、決めぬも地獄、ということだった。
 ぼろぼろと、涙がこぼれる。
 もういいんじゃないの。こんな辛い思いをしてまで自分の存在を誇示しなくても。
 受け入れちゃえば、悲しみはすーって消えて、楽になるのよ、きっと。
 孤独とは、ここまでひとを弱くするものなのだろうか。
 もうひとりのルビィ、あなたは幸せになりたいんでしょ?
 だとしたら、わたしは…。
 この身体、ゆずっても、いいわ。

「はやかったじゃないか、G・レオン」
 エドガーはそういった。
 レオンはその問いに答えず、黙っているだけだ。
 やはりこいつは、頭の中で好きなように現実を動かせる、頭のいいやつなんだ。
 ディーンは、エドガーを見ると、少しだけおずおずしていた。
 本当に元のエドガーに戻っているのかしら?
 それでも職務を優先しなくてはならない。できるだけ平静を装って、エドガーと付き合うことにした。
 ディーンは、エドガーに近づくと、
「あなたのことはみんな分かっているわ」
 と、耳打ちした。
「それなら話しははやい」
 エドガーは、立ち上がると、
「さっそく、ジーザス・クライストを退治しに行こうと思うのだが」
 と、レオンやバルトを見つめながら、いった。
 バルトは、その視線を真っ向から受けて、
「カーンが先だ」
 と、激しい口調でいった。
 その態度を見て、エドガーは掌を返したように、
「じゃあ、そうしよう。わたしはどっちからだって構いやしないのだから」
 と、いった。
 レオンは気がついていた。
 エドガーは、わざとこちらに不都合な条件を提示して、おれたちを試したのだと。
「ところで、カーンは今どこに…?」
 ディーンは、エドガーに質問した。
「彼は中庭で訓練をしているはずだ。身体がなまっちゃいけないからね」
 そういうと、エドガーは深刻な表情になって、
「彼は本当に強い。もしかしたら、わたしたちが束になってかかっても、敵わないかもしれない」
 と、断言した。
「それほどまでに?」
 バルトは、エドガーに聞き返した。
「それほどまでに強いから、彼は軍事院のナンバー2にまで上り詰めたんだよ」
 なんとなく、現実感の湧いてくる答えだった。
「それはそうと…」
 ディーンは、エドガーの耳に口を近づけると、小さな声で、
「牙がどこにも見当たらないのだけど」
 と、聞いた。
 それに応じてエドガーも、小さな声で、
「牙ならもう到着しているよ」
 と、いった。
 ディーンは、驚いた。あれだけ探した牙が、すでに霧の古城に到着しているなんて。
「でもね、あいつはわたしの本当の切り札なんだ。残念ながら詮索しないでくれ」
 エドガーは、ディーンとの内緒話しを済ませると、
「さあ、行こうか」
 と、一同を促した。
 ディーンは、エドガーの姿をじーっと見つめていた。
 元に戻ったんだ。あのやさしいエドガーに。
 今更ながら、実感が湧いてきたのだ。
 最後まで信じきれてよかった。
 ディーンは、心の底からそう思っていた。

 カーンは、城の中庭で、鉄の杖を素振りして、身体を動かしていた。
 コートを脱いだその身体は、筋骨たくましいものだった。
 汗が滴り落ちる。
 ふと、気配を察してそちらを振り向くと、そこには四人のひとが立っていた。
 エドガー、ディーン、レオン、バルト。
 いずれも、殺気を漲らせて、カーンを見つめている。
「どうしたんですか、そんな大勢で」
 一同を見つめるカーンのまなざしも、殺気を放っている。
 エドガーは、剣を抜いて切っ先をカーンに向けると、
「カーン・レミントン。あなたが生きていては国のためにならない。残念だが、あなたにはここで死んでもらう」
 と、いった。
 カーンは、せせら笑うと、
「やはりあなたはわたしを裏切りましたか」
 と、眼光するどく、エドガーを睨みつけた。
 両者に緊張が走る。
「そういえば、この剣はジーザス・クライストから与えられた、裏切り者の首をはねる剣だとあなたから聞いていましたが、この剣はわたしではなく、あなたの首をはねたがっているようですね」
 ふふっと、エドガーは笑みをこぼす。
 カーンは、眼鏡をくいっと直す。
 あのときは、エドガーをけん制するためにあんな嘘をついたが、それがこういった形で挑発に使われるとは、思ってもみなかった。
 カーンは、強く侮辱されたような気持ちになった。それはエドガーが一度、その嘘を信じているような素振りを見せていたからだ。
「後悔することです。わたしを敵にまわしたことを」
 カーンは、一気にエドガーの近くまで間合いを詰めると、鉄の杖を横に振った。
 エドガーは、それを剣で受け止める。
 それを合図に、レオンとディーンとバルトも、戦闘態勢に入る。
「てい!」
 エドガーは、剣を払って、カーンをはじく。
 すると、カーンは間合いをとって、
「あなたのような教科書をかじっただけの剣術じゃ相手になりません。エドガー、あなたは最後だ」
 というと、カーンはいきなりレオンに攻撃目標を変えた。
 カーンは鉄の棒を垂直に振り下ろしてきた。
 それをレオンは槍を横にして受け止める。
 すると、カーンは鉄の杖から片手を手放して、自由になった片手で即座にレオンを押すと、力ずくでそのまま押し倒してしまった。
 それは、押しとは思えないほど、力強い押しだった。
 カーンは、また攻撃目標を変えて、ディーンに襲いかかってきた。
 ディーンは、垂直に振り下ろされた鉄の杖を、両手で掴むと、そのまま力ずくで圧倒される形となった。
 やはり、男と女では力の差がありすぎる。
 エドガーがそこに切りかかってきた。
 しかし、カーンは横蹴りでエドガーを難なくけり飛ばす。
 その隙をついて、ディーンは鉄の杖から手を離すと、カーンの胸倉を掴んだ。
 すると、カーンは細かく足払いをかけた。
 そこで体勢を崩すほど素人ではないディーンだが、むしろカーンの意図は一瞬でも意識を足に向けさせるためであった。
 カーンは、胸倉を掴んでいるディーンの腕を掴むと、力ずくでねじった。
 そして、痛みに顔を歪ませるディーンを、容赦なく地面に叩きつけた。
 その隙をついて、レオンが槍でもってカーンを突く。
 それを紙一重でかわしたカーンは、その槍を脇に抱えると、力ずくで槍を引っ張ってきた。
 レオンは叫ぶ。
「バルト!」
 バルトの銃が、カーンを狙い撃つ!
 しかし、カーンはそれすら難なくよけてしまった。
「あなたの銃は、一番気にしていたんですよ」
 カーンは、眼鏡をくいっと直す。

 カーン・レミントンは、貧しい農家の長男として生まれた。
 父親は暴力で他人を屈服させるようなひとだった。
 そのときから、カーンの心の中に異常なほどの力に対する執着が生まれた。
 成長したカーンは、父親から逃れたくて、自ら志願して軍隊に入った。
 軍隊は、権力と規律で、目下のものに絶対服従を強いる世界だ。
 カーンは、沢山悔しい思いをした。
 戦場で死んでゆく仲間を見た。
 そこでカーンがたどり着いた境地こそ、本当の意味で強くなることだった。
 戦場で死なないために強くなる、権力を手に入れるために強くなる。
 ひとりでも戦功を上げられるほど強くなる、他人を信じなくていいように強くなる。
 強くなる、強くなる。
 その強くなった果てが、現在のカーンの、この異常なまでの強さなのである。

「今のぜんぶ、手加減してます。あやまるなら今のうちですよ」
 カーンは、眼鏡をくいっと直した。
 エドガーも、ディーンも、レオンも、バルトも。
 カーンの異常なまでの強さを、徐々に実感してきていた。
 こちらは四人もいるのに、結局は一対一でしか戦えないのだから、反則的に強いカーンが勝つことになる。
 だとしたら、もう少し数を活かした戦い方をしなくては。さっきのレオンとバルトのように。
 しかし、一朝一夕でコンビネーションの呼吸を合わせられるはずがない。それにこの四人は、実益主義者の集まりなので、その点においてはもっとも脆いのだ。
「あやまる気がないのなら、死んでもらうしかありませんね」
 カーンの目に、さっき以上の殺気がこもる。
 ディーンは、考えていた。
 あのエドガーが何の考えもなく、カーンを倒せるとは思っていなかったはず。
 それに、レオンとバルトは不確定要素でやってきた第三者。
 だとしたら、レオンとバルトがいなくても、カーンを倒せる方法を、エドガーは持っているのではないだろうか?
 それはきっと、すでに霧の古城に潜伏しているという暗部の牙。
 エドガーも、牙が切り札だといっていた。
 だとしたら、なぜエドガーは牙を使わずに、レオンとバルトを巻き込んで、わざわざカーンと戦っているのだろう。
 ディーンの考えがまとまる前に、戦況は動いた。
 バルトがトネリコの民の札を取り出した。
「これをなんとかしてやつに貼り付ければ、勝てる。みんな、協力してくれ!」
 三人は、それにうなずいた。
 カーンが、眼鏡をくいっと直す。
「小賢しいですね。あなたから倒せば済むことでしょう」
 バルトは、銃と札を構えて、カーンを迎撃するつもりだ。
 カーンは、走って間合いを詰める。
 バルトも銃でカーンを狙い撃ったが、どうも着弾する場所を見抜かれているらしく、難なくかわされた。
 カーンは、バルトに近づくと、また鉄の杖を垂直に振り下ろしてきた。
 それを受け止めてはいけないので、バルトは身体をそらして、それをかわした。
 すると、鉄の杖はちょうどバルトのわき腹ところでピタリと止まり、そこから横なぎへと変化した。
 わき腹に鉄の杖の直撃を受けたバルトは、横に吹っ飛んだ。
 今度はレオンがカーンに立ちふさがる。
 槍を何度も変化させて、カーンは貫こうとする。
 しかし、カーンは攻撃の先が読めるのか、それを難なくかわす。
 そして、いきなりレオンの懐に入ると、レオンを背負い投げて地面に叩きつけた。
 さらに、地面に叩きつけたレオンに向かって、鉄の杖を振り下ろす。
 それを今度は、ディーンが割って入って、両手で掴んだ。
 力で負けることは分かっているので、今度は得意の柔術で相手をしようと思った。
 しかし、柔術の腕前でもカーンの方が上らしく、逆に襟を掴まれて、地面に叩きつけられてしまった。
 そこへまた、容赦なく鉄の杖を振り下ろす。
 今度はその鉄の杖を、エドガーが剣で受け止める。
 カーンは、エドガーを睨みつけた。
「あなたは引っ込んでなさいよ。一番ザコなんですから」
 カーンは、また横蹴りでエドガーをけり飛ばした。
 その隙をついて、左右から同時に、ディーンとレオンが掴みかかる。
 しかし、即座にディーンは弾き飛ばされてしまった。
 カーンは掴みかかったレオンを睨みつけて、
「怪我人はすっこんでなさいと」
 と、片手にもった鉄の杖でレオンの傷口を強くぶった。
「うぐ!」
 さすがの無頼漢も、声を上げるほどの痛みだった。
 カーンは、そのままレオンの胸倉を掴んで、また地面に叩きつけると、傷口を中心に何度も鉄の杖でバンバンと叩きはじめた。
 縫ってあった傷口が、すぐに血まみれになる。
 銃声がして、カーンがその場から離れるまで、レオンは十数回も傷口をぶたれた。
 それはもう、気絶寸前の痛みだった。
 レオンは、槍を軸にして立ち上がろうとしても、なかなか立ち上がれないでいる。
 ディーンは、レオンのその姿を見て、エドガーに視線を移した。
 エドガーはなんと、少し笑っているように見えるではないか。
 ディーンには、その笑みの意味が分からなかった。
 第三者のレオンがやられても、戦力は減ってしまうのに…。

 カーンはひとつも傷を負っていない。
 対する四人は、疲労が隠せないところまできている。
 特にレオンの傷はひどくて、もう満足に戦うことはできないかもしれない。
 バルトの銃も、すでに撃ち尽くしてしまったようだ。
 そろそろか…。
 エドガーは、心の中で機を見ていた。
 剣をすっと水平に構えなおすと、カーンの前に立ちはだかった。
「牙!」
 エドガーは、ついに切り札である暗部の牙を呼ぶのだ。
 軽快な足音が近づいてくる。まるで風のような走り方。
 中庭にやってきたのは、なんと一匹の狼だった。
 カーンは、出し抜かれたような気分になった。この狼に見覚えがあるからだ。
 霧の古城で、ずっと自分を監視していた狼だ。
「まさか、この狼があなたのものだったとは」
「軍用犬の再強化プラン。覚えているだろう。あなたがわたしにくれた贈りものだ。霧の古城にまぜておくには、ちょうどよかったのでね」
「まさか、敵に塩を送ることになっていたとは…。でも、狼一匹になにができます?」
「こいつはただの狼じゃない。賢い狼だ。それにあなたの訓練をずーっと見させておいた。いわば、あなたの弱点を知る唯一の存在」
 カーンは、苦虫を噛み潰したような表情になった。
「あなたがそこまで考えていたとは、意外です」
 カーンは、眼鏡をくいっと直す。
「わたしはあなたほど強くはない。だから、頭だけでも勝たせてもらおうと必死でしたよ」
 エドガーは、殺気のこもった眼で、カーンを見つめる。
 それにと、エドガーは付け加える。
「わたしの剣は、教科書をかじっただけのものではありませんよ」
 エドガーは、さっとカーンの懐に踏み込むと、剣で下から切上げた。
 カーンは、それを後ろによけてかわす。
 そこに、牙が噛み付いてきた。
 狼のスピードは人間よりもはやい。カーンは、それをかわしきれずに、腕を噛まれてしまった。
「くっ!」
 カーンは、腕を振り回して、牙をよけようとする。
 しかし、一度食らいついた狼は、決してその牙を放さない。
 牙に気をとられている隙に、エドガーが切りかかってきた。
 カーンは、それを鉄の杖で受け止めるが、両手と片手の力の差。
 みるみるうちに、刃は眉間まで迫ってきた。
 カーンは、刃を払って、間合いを取った。
「不覚です」
 思いっきり力を込めて、牙を腕からはがす。
 そして、眼鏡をくいっと直す。
「わたしにだって、切り札はあるんです」
 と、高圧的な態度になった。
「したかがありません、不本意ですが、それを切らせてもらいます」
 カーンは、眼鏡をくいっと直すと、
「ごきげんよう」
 戦うことをやめて、一目散に中庭から逃げ出した。
「牙!」
 エドガーは、牙に号令をかけて、カーンを追わせる。
 カーンとの戦いは、ひとまず終わったようだ。

 エドガーは、レオンとバルトを見て、こういう。
「ごくろうさん。残念ながらカーンは逃げてしまった。わたしは今から、任務のためにジーザス・クライストを退治しに行く。きみたちは休んでいてくれたまえ」
 そういうと、エドガーは霧の古城の三階を目指して、歩きはじめた。
 ディーンは、悟った。
 わざわざ牙を使わずに戦闘を長引かせたのは、レオンとバルトに手傷を負わせるためだったんだ。
 そして、自分は弱いふりをして、一番体力を温存しておく。
 すると、ライバルであるレオンとバルトは、この段階で動けなくなっている。
 あとは邪魔をされずにジーザス・クライストを倒したあと、牙と一緒に手負いのカーンを倒せば、任務は無事終了。
 この計画はどう考えても、レオンとバルトが第三者としてやってきてから、考えられたものだ。
 エドガー・マジェスタは、昔から天眼の男と呼ばれていた。
 まさにその呼ばれ方にふさわしい頭の持ち主だと、ディーンはつくづく思っていた。
 ディーンは、エドガーの後ろについてゆく。
 彼女も、エドガーの部下として、任務を果たすつもりだ。

 エドガーやディーンを、後ろから撃ちたくても、すでに銃の弾はなくなっている。
「くそっ!」
 バルトは、鉄の杖でわき腹をぶたれて、肋骨が折れているのか、呼吸をするのも辛いような状態で、ふたりの後をのろのろと追う。
 レオンはというと、体中が血だらけで、満足に歩くことすらできないでいる。
 はってでも、追いかけようとするが、息も切れ切れ。
 追いついたとしても、戦力にはならないだろう。
「うぅぅ…」
 レオンは、ふたりの立ち去ったあとを、睨みつける。そして、唸る。
 まるで野生の動物のようだ。

 カーンは、森の中を北に向かって走っていた。
 しばらくすると、カーンは古びた教会へとたどり着いた。
 カーンは、教会の中へと入る。
 とある一室の床を剥がすと、はしごがあった。
 そのはしごをずっと下りていくと、地下空間へとたどり着く。
 地下空間の最奥で、カーンはついに「切り札」と呼んでいたものに出会う。
 それは、ジーザス・クライストが作った、紛れもない女神ディバードであった。
「だれが聖体の確保を信用できない人間に任せますか。わたしは彼が計画に加担するずっと前から、聖体を確保して、ジーザス・クライストに渡していたんですよ」
 カーンは、女神を見た。
 青い髪をした、美しい女性だった。
「おお、この女神さえいれば、わたしは国を作れる。何百年と続く、女神によって統治される神の国が。そしてわたしは、神を操るものとして、最高の権力を手に入れる」
 そう。人工的に作られた女神は、永遠の命を持っているのだ。
 カーンのけたたましい歓喜の笑い声が、地下空間を震わせる。
「しかし…、万全を期すために、ジーザス・クライストは、あと一週間は調整が必要だといっていました。まあ、仕方がないでしょう。状況が状況ですからね」
 カーンは、女神を指さすと、大きな声で、
「スタンドアップ(起動)!」
 と、いった。
 女神の目に、自然な眼光が宿る。
「すばらしい!」
 カーンは、打ち震えている。
 しかし、女神のようすがちょっとおかしい。
 命令もしていないのに、勝手に動き出したのだ。
 そして、つぶやくようなか細い声で、
「死なせて…」
 と、いうのであった。
 すると、女神の目から血の涙が流れ出てきた。
 その量は次第に増して、地面は血だらけになってしまった。
 それと比例するように、女神の身体から人間的な温かみは失われてゆく。
 カーンは、ただ唖然とそれを眺めていた。
 ジーザス・クライストは、命令に忠実に動く、人形を作っていたのではないのか?
 骨や肉や皮膚を張り合わせて、一から人間を作るように。
 カーンは、女神の異常な行動を見て、直感的に思った。
 これはまったく逆だ。
 人間から徐々に一を引いて、最終的に人形にする作業を、ジーザス・クライストはしていたんだ。
 あと一週間の調整が必要。
 あの男は、ここでどんなことをしていたんだ?
 どんなことを…。
 後ろからふと、狼の唸り声が聞こえてきた。
 振り返ると、牙と呼ばれていた狼が、そこにいた。
「くそう!」
 カーンは、牙に向かって、鉄の杖を思いっきり投げつけた。
 もはや、自暴自棄である。
 今度は、後ろからあやしげな鳴き声が聞こえてきた。
 牙を背に振り返ると、そこには巨大な真っ黒が立っていた。
「なんだ…、これは…」
 真っ黒は、黒い霧でできた魔獣のような姿をしていた。
 そいつがカーンを見て、唸るのだ。
 カーンは、さまざまな戦場でありとあらゆる恐怖を体験してきた。
 しかし、黒い霧の魔獣は、それ以上に本能的な恐怖をカーンに与えた。
 カーンは、絶叫した。
 黒い霧の魔獣が、カーンを飲み込む!
 すると、黒い霧の魔獣は、霧が晴れるようにして、消えてしまった。
 そして、そこには、絶命したカーンだけが取り残されていた。


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