ルビィは、どことも知れない、真っ白な世界にひとり立っていた。
見えるものがなく、聞こえるものがなく、触れるものがなく…、そんな世界。
根気よく、じーっと一点を見つめていると、真っ白の狭間が見えてきた。
あれはきっと、地平線だろう。
ルビィは、自分の身に起こったことを思い出してみた。
わたしは確か…、もうひとりのルビィに身体をゆずって…。
そうしたら、ここにきていたのだ。
ここは、もうひとりのルビィが存在していた世界なのかしら。
だとしたら、わたしは彼女と入れ替わったんだ。
ルビィは、とぼとぼと歩きはじめた。
なにもない。
本当に真っ白が延々と続く世界だった。
自分が本当に歩いているのかすら、疑わしかった。
それでいて、まったく疲れない。
まるで夢の中…。
もうひとりのルビィは、こんな世界にずっとひとりでいたのね。
かわいそうに…。
ルビィは、立ち止まると、あたりを見回してみた。
真っ白。なにもない。
自分の心だけが存在する世界。
他者の介入を許さない世界。
ここは、とても冷たいところだと、ルビィは感じた。
心が冷える。
きっと、ヨシュアもこの世界にやってきて、帰れなくなっているのね。
だから、もうひとりのルビィは、彼をこの世界から目覚めさせるために、わたしを霧の古城まで導いた。
そして、ついにわたしの身体を乗っ取って、本懐を果たすんだわ。
ルビィは、その場にしゃがみこんだ。
わたしはこれから、どうなってしまうのかしら。
もうひとりのルビィの代わりに、ルビィの身体が朽ちる日まで、この真っ白な世界の中に延々と閉じ込められるのかしら。
ルビィは、自分の身体を自分の腕で強く抱きしめた。
そうやってなんとか、存在を保とうとしているのだ。
エドガーとディーンは、霧の古城の三階へとたどり着いた。
ジーザス・クライストを、ヨシュアを殺すつもりである。
鉄の扉は開いている。
ふたりは、部屋の中に誰かいることに気がついた。
あれはルビィだ。
ルビィが、ジーザス・クライストと、話しをしているのだ。
ふたりはそっと隠れるようにして、その会話を盗聴することにした。
「ヨシュア。わたし。ルビィよ。あなたに会いにきたの」
いつものルビィの声ではない。もっと大人っぽい声だ。
「ああ、ルビィ。君の声が聞こえないと思ったら。会いにきてくれたのか」
ジーザス・クライストは、右手に宝石の板を持っている。
「愛してるわ」
そういうと、ルビィはジーザス・クライストを抱きしめた。
「ああ、温かい。きみの温もりだ」
ジーザス・クライストは、涙を流す。
エドガーは気がついていた。
ジーザス・クライストが、いつものように正気を取り戻していることを。
会話から推測すると、この前のぼんやりとしていたときの記憶はないらしい。
しかし、ジーザス・クライストは、きっ、とルビィを睨みつけると、
「きみは死んだ。どうしてぼくの元に帰ってきた」
と、ルビィを責めた。
すると、ルビィは、
「あなたは大きな勘違いをしているわ」
と、いった。そして、
「理学じゃ説明のつかない世界もあるのよ」
と、ジーザス・クライストを見つめる。
ジーザス・クライストは、宝石の板をルビィに見せつけた。
「これがすべてではないと?」
ルビィはうなずいた。
「だからわたしが帰ってこれたの。これがその証明よ」
「だとしたら…、きみは本物のルビィ?」
「ええ、そう。あなたの愛したルビィよ」
ジーザス・クライストは、力強くルビィを抱きしめた。
「おお、神よ!」
ジーザス・クライストに強く抱きしめられたルビィは、涙をこぼしている。
「ええ、哀れなわたしを、神さまがようやく許してくださったのよ」
エドガーは思っていた。
どうやら、このふたりは再会を果たしているのだ。
エドガーは、無粋と思いながらも、ディーンに指示を出して、部屋の中へと踏み込んだ。
「ジーザス・クライスト。きみには死んでもらう」
エドガーは、剣を構える。
ジーザス・クライストは、エドガーを睨みつける。
それをかばうように、ルビィが前に出た。
「ヨシュアを殺す? 馬鹿をいわないで。死ぬのはあなたよ」
ルビィの身体から、黒い霧がたちはじめる。
その黒い霧はやがて形を作るように集まり、ついに魔獣の姿になった。
ジーザス・クライストは叫ぶ。
「そいつは!」
ジーザス・クライストには、その黒い霧の魔獣の正体が分かっていた。
怨霊である。
ジーザス・クライストは、研究の末に、魂や精神の一部を切り取る術を編み出した。
しかし、切り取られた魂や精神は、どうなるのか?
そう、切り取られた魂や精神は、必ずこういった怨霊の形になるのだ。
怨霊は、生きているものに害をなす。
場合のよっては、呪い殺すことさえある。
だとしたら、目の前にいるルビィは…。
ジーザス・クライストは、頭をかかえて、うずくまった。
「やはり、失われたものは二度と戻らないのだ! 許してくれ、ルビィ! そして、やめるんだ!」
ルビィは振り向いて、うずくまるジーザス・クライストを見た。
「なにをいっているの? わたしはあなたに危害を加えようとするこいつらを殺す。だって、邪魔なんですもの」
「やめるんだ!」
「うっとうしいやつらを黙らせるから、そうしたらまた、わたしを抱きしめてね」
ルビィは、威圧するようにエドガーとディーンを睨みつけた。
エドガーは、剣を持つ手が震えてきた。
何か得体の知れないものに睨みつけられているような気がするからだ。
それは「死」そのもの。
いくつもの戦場を制してきたエドガーだが、これほどの恐怖を味わったことはなかった。
ディーンも同じように、肩ががくがくと震えている。
それを止めようと、ふたりとも必死だった。
怨霊が、ふたりを睨みつける。
ジーザス・クライストは、もう罪を重ねたくなかった。
それに、愛するルビィがひとを殺すところなんて、見たくなかった。
結果は出たんだ。あの優しかったルビィは決して戻らない。
もう、命を捨ててもいいだろう。
ジーザス・クライストは、懐から銀のナイフを取り出すと、それで思いっきり自分の首を掻き切った!
ルビィが、驚いた表情で、ジーザス・クライストを振り返る。
「な、なにを」
ルビィは、首から血を流すジーザス・クライストを、抱きしめた。
「どうして!」
ジーザス・クライストは、ゆっくりとルビィと視線を合わせると、
「罪滅ぼしさ」
といって、死んでいった…。
ルビィは、ジーザス・クライストを強く抱きしめると、泣き叫んだ。
「まちがっているわ! こんなのまちがっている!」
状況をうまく把握できないが、どうやらジーザス・クライストは自害した。
エドガーは剣を収めると、ディーンをうながして、すばやく霧の古城から逃げ出すことにした。
バルトがよたよた歩きで、三階までたどり着いたとき、すでにすべては終わっていた。
血にまみれたヨシュアの死体を、ルビィが号泣しながら抱きしめていている。
他人が泣いていると、どうも感情的になれないものだ。
バルトは、弟の死を、虚無的に受け止めていた。
「なにがあった」
バルトは抜け殻のような声で、ルビィに聞く。
すると、ルビィはバルトを睨みつけて、
「あなたがいなければ、ヨシュアは死ななかった」
と、恨むようにいった。
恨めば恨むほど、その恨みは徐々に強くなる。
「そうよ。あなたがヨシュアにあんなひどいことをしたから、彼はこんなになってしまった。ああ、なんてかわいそうなヨシュア。わたしが…、わたしが敵を討たないと…」
バルトは思い出していた。
トネリコの民を助けるために説得しにきたヨシュアを、自分はボコボコに叩きのめしてしまったことを。
ルビィの身体から、憎悪の魔獣が噴き出す。
「あなたを殺す」
ルビィの目は、正気を失っている。
しかし、バルトは、
「死ねば許されるのか?」
と、聞き返してきた。
「許さない。許さないけど、あなたを殺さないと、あまりにもヨシュアがかわいそう。だから死んで」
バルトは、ちらりとヨシュアの死に顔を見た。
安らかに死んでやがら。
お前はきっと、この女のために、自分を犠牲にしたんだな。
そんなところまで似ちまうのかねぇ。兄弟ってもんは。
バルトは、死を覚悟した。
「殺せよ」
ルビィは、叫びながらバルトを指さす。
そして、黒い霧の魔獣は、バルトを飲み込んだ。
ヨシュア、今いくからな…。こんなバカな兄貴を許してくれ。
命が尽きる瞬間、バルトはそんなこと考えていた。
バルトの死体が、床に転がっている。
そのとき、ルビィの心の底から、ひどい後悔の念が押し寄せてきた。
「ご、ごめんなさい」
なぜ、わたしはこのひとの命を奪ったのか。
「ごめんなさい」
憎悪に身を任せて、すべての責任を他人に押し付けてしまったのか。
「ごめんなさい!」
もう、戻らない。それはヨシュアも一緒。
「あーあーーーっ!」
ルビィは、泣き叫んだ。
わんわんと、いつまでも泣き叫び続けた。
すると、ルビィの身体から、今までよりずっと黒い霧がたちはじめた。
「わたしがいなければ! わたしがいなければよかった!」
その黒い霧は、霧の古城からあふれ出して、あたり一面を黒く染めてゆく。
エドガーとディーンは、その光景を、城の外から眺めていた。
霧の古城の周辺の霧が、徐々に黒く染まってゆく。
これをすべて、ひとりの女がやっているのか。
絶句するしかなかった。
そこに、カーンを追ったはずの牙がやってきた。
口に、カーンが使っていた鉄の杖をくわえている。
「そうか、カーンは死んだか」
エドガーは、その鉄の杖を、牙から受け取ると、
「ディーン。もう用事はない。はやく立ち去ろう」
といって、すぐに走り出した。
それはもう、本能的な行動といってよかった。
ディーンは、しばし立ち止まって、霧の古城を眺める。
「わたしを負かした男、G・レオン。運がよかったら、また会いましょう」
ディーンも走って、エドガーの後を追う。
これで彼らの任務は終わった。
ふたりの男女と一匹の狼が、森の中へと消えてゆく…。
「あーーあーーあーーーー!」
ルビィの絶叫と涙は、激しさを増すばかりであった。
真っ白の世界で何年も耐え抜いた結果が、これなのだから。
「なにを泣いている」
ルビィは、その声を聞くと、悲しみを和らげて、そちらを見た。
そこには、血だらけになりながらも、はって三階までやってきた男がいた。
その男は、ジーザス・クライストとバルトの死体を確認すると、ルビィを見つめた。
「なにがあった」
ルビィは、嗚咽が激しすぎて、それに答えることができないでいる。
すると、その男はこう語りはじめた。
「好きだった男が死んだか。それで泣いているのか。バルトも死んだか。なんらかの事情があったんだろうな。まあ、悲しいのは分かるが、いつまでも悲しんでいる場合じゃないぞ。とにかく、それを受け入れなければならん」
男は、血だらけの表情で、語り続ける。
「おれは…、10歳のときにすべてを失った。母親も父親も親友も。村が山賊に襲われてなあ。親しかったひとたちの死体が転がっているさまを、今でも鮮明に覚えている。そこをこの男に助けられた。それからというもの、山賊に復讐するため、バウンティハンター(賞金稼ぎ)として、己を強く高めていった。でもな。ひとを殺せば殺すほど、憎めば憎むほど、自分が黒くなっていくような気がした。どうやらこれを自己嫌悪と呼ぶらしい。おれは今もそれから抜け出せないでいる。だが、自分を否定しても生きられん。生きられんが、おれは生きている。ときどきそれが不思議でたまらん。でも、生きているのだからしかたがない。泣こうが喚こうが現実は変わらん。だからおれは、その、お前を連れてこの城から脱出することを、今一番に考えている」
男は、はったまま、ルビィに向けて手を伸ばす。
「こっちへこい、ルビィ」
しかし、ルビィはそれすら恨む。
「わたしはもうダメ! 死んでやる! すべてを巻き込んで死んでやる!」
「甘ったれるな!」
男は、ルビィを一喝する。
「お前の人生は、また旅として生きてきた人生は、こうやって最後にはすべてを否定するためのものだったのか。とんだ偽善者だ!」
ルビィは、その声に圧倒されていた。
無様にも地べたに、はいつくばったまま怒鳴る、男の声に…。
また旅として生きてきた人生?
そうか、わたしのあとに生まれたルビィのことを話しているのね。
すると、ルビィはこつんと気絶してしまった。
男は、それを確認すると、槍でなんとか立ち上がって、ルビィを背負うと、槍を杖代わりにして、ゆっくりと古城の階段を下りはじめた。
真っ白な世界で、自分を抱きしめているルビィの元に、もうひとりのルビィがやってきた。
ルビィは面を上げて、もうひとりのルビィを見つめた。
もうひとりのルビィが、語りかけてくる。
「あなた、また旅の医者をやっていたのね。どうして?」
「どうしてもなにも…、そうしたかったから」
「また旅の医者をして、どれだけの命を救った?」
「そう多くはない。でも、これからもできるかぎり、救える命を救いたいと思ってる」
「あなたはだれ?」
「あなたこそ…、だれですか」
もうひとりのルビィは、しゃがんで、ルビィと目線の高さを合わせた。
「あなたは…、わたしの魂がわたしの肉体から解離したときに、どこからともなく自然発生した人格よ」
「そんなの、覚えていません」
「あなたは、この世界に充満する霧のようなもの。魂に穴が空くと、そこにひゅーって入ってきて、失われた魂の穴埋めをするの」
「わたしには、あなたこそそう見える」
もうひとりのルビィは、ため息をついた。
「そうかもしれないわね」
自分が怨霊のような存在になっていることは、分かっていた。
「昔話を、しましょうか」
もうひとりのルビィは、ルビィの隣にすわった。
「わたしはね。小さな田舎町に生まれた科学が大好きな女の子だった。頑張って、大学に入って、理学科に入ったわ。そこでヨシュアと出会った。彼とはなかなか親密にならなかったけど、次第にお互いのことを知って、恋に落ちた。彼はさえない学生だったわ。いつも高いところだけ目指しているの。だから、結果は残らないけど、すごい研究をしていた。わたしはそれを応援したくなった。そんな矢先、トネリコの民に不幸なことがあってね。わたしも彼に同行して村まで行ってきたけど、彼はボコボコになって帰ってきたわ。それでも、恨み言ひとつ漏らさない。自分が悪いんだって、ずっとつぶやいていた。あとは知っているだろうけど、トネリコの民は滅びたわ」
もうひとりのルビィは、一息つけた。
「それからというもの、ヨシュアに対する風当たりは強くなるばかり。わたしたちは、大学を捨てて、自分たちだけで研究をすることにしたわ。トネリコの民の札を解明による自然神の解明。それがわたしたちの研究だった。それが成功すれば、わたしたちをコケにした連中を見返してやることができる。でも、自然神を知れば知るほど、わたしたちは深みにはまっていった。最終的には人体実験よ。彼はいやがったけど、わたしがなんとしてでも自分を実験体にしてやるっていったら、心配だからって協力してくれたわ。それが一番のまちがいだった。神さまを冒涜したわたしは、気がついたらこの真っ白な世界にやってきていた。嘆いたし、悲しんだ。だって、ヨシュアともう会えなくなってしまったのだから」
もうひとりのルビィは、当時を思い出して、少し涙ぐんでいる。
「これからあとは、想像だけど。ヨシュアは実験に成功した。成功したけど、わたしを失ってしまった。だから、腐ってしまった。霧の古城にこもって、ずーっとひとりで研究を続けたでしょうね。わたしが逆の立場だったらそうなる。彼はきっと、わたしを取り戻したかったのよ。でも、わたしの身体をした、わたしとちがうものが近くにいることだけは耐えられなかった。だから、彼はあなたの記憶をちょっぴり操作して、外へと逃がしたのね。切ないけど、きっとそれしかできなかったと思う」
もうひとりのルビィは、ルビィを見た。
ルビィは、じーっとその話しを聞いている。
「こんな世界にいるとね。いろんなことを想像するの。たとえ外の世界の情報が入ってこなくても、愛したひとの行動くらい…、簡単に想像できるわ」
ルビィが、口を開ける。
「夢を見ました。わたしがヨシュアさんに声をかけるという」
「あなたの中にわたしのかけらが残っていて、そんな夢を見せたのね。肉体にも記憶が宿ると聞いたことがある。そんなものでしょう」
「あなたが望んだんじゃないんですか? ヨシュアさんに会いたいって」
「望んだって、念なんか届きゃしないわよ。この白い世界からじゃね」
「でもわたしは…、あなたの存在を感じていました。少しずつ、あなたが表面化してくるような」
「わたしは…、気づいたら元の身体に戻っていて、驚いた。それだけよ」
「いいえ、あなたは何度かわたしを飲み込んで、表面化してきました」
すると、もうひとりのルビィは深刻な表情になった。
「もしかしたら…、あなたはわたしにより身近な存在なのかもしれないわ」
そういうと、もうひとりのルビィはずっと考えごとをした。そして、
「この身体、あなたに返そうと思って、わたしはここまできたのよ」
と、唐突に話しを変えた。
ルビィは、がばっともうひとりのルビィを見た。
もうひとりのルビィは、その目線を受けながら話しを続ける。
「わたしは消えるから」
「消える?」
「そう。もう未練もないから消えるの。それに、あなたには少なからずひとりだけ、あなたの帰りを待っているひとがいる」
ルビィには、そのひとの心当たりがなかった。
「さあ、目覚めなさい。あっちよ。あっちの果てに、あなたの身体がある」
もうひとりのルビィは、一点を指さした。
それを見たルビィは、もうひとりのルビィが指さした方向に向かって、全力で走り出した。
「ああ、あの子、まだ生きていたのね、安心したわ」
もうひとりのルビィは、立ち去るルビィをじーっと眺めていた。
「あの子はきっと、わたしの身体の中から生まれた存在。いわばわたしの子供。なんでこんなことに気づかなかったのかしら」
もうひとりのルビィの存在が、光の粒子へと変わってゆく。
「ヨシュア。わたしたちの子供は、あれだけ元気に生きようとしている。心配ないわ」
やがて、もうひとりのルビィは、完全に消え去った。
ルビィは、はっと気がついて、後ろを振り返った。
もうひとりのルビィは、すでに消えてなくなっていた。
彼女がよけてくれたから、わたしはまた存在することができるんだ。
涙がこぼれた。
それを、一生懸命になってぬぐう。
「わたし、わたし、あなたの分まできっと多くの命を救うから! 精一杯生きるから!」
いくらぬぐっても、涙が止まらない。
「だから、向こうで待ってて。わたしもいずれ、そっちに行くからね」
ルビィは、嗚咽を止めると、また走り出した。
もしかしたら、ルビィがまた旅の医者になったことは、彼らの罪滅ぼしのためだったのかもしれない。
多くの命を救うことによって、ヨシュアともうひとりのルビィが作った罪を、無意識のうちに償っていたのかもしれない。
ルビィは走る。
光に包まれながら、身体の隅々まで感覚が戻ってくる。
ルビィはもっと走る。
ああ…、これがわたしの身体。魂。存在。戻ってくる…。
ルビィは、完全に光に包まれた。
そして、感じるのだ。
ありとあらゆる、生命の息吹を。
存在するということの愛おしさを。
その体験は、ほんの一瞬だったが、ルビィにとって、かけがえのないものになった。
ルビィは、意識を取り戻した。
だれかに負ぶわれている…、おとうさん?
はあ…、はあ…、と、息の荒い声と、血のにおいがする。
ルビィは、気がついた。
血だらけのレオンが、ルビィを背負っているのだ。
「あ、あなた、なんてことを!」
レオンは返事をしない。はあ…、はあ…、と息を荒げているだけだ。
「降ろして!」
ルビィは、レオンの背中から降りた。
すると、レオンは精神がぷっつりと切れたのか、ばたりと倒れてしまった。
それでも意識はまだあるようだ。
そのレオンを、今度はルビィが肩に背負って、支えるようにして歩かせる。
霧の古城の外に出ると、ルビィはレオンから今までのことを聞かされた。
カーンが逃げたこと、ジーザス・クライストが死んだこと、バルトが死んだこと、エドガーとディーンが逃げたらしいこと、など。
「バルトさんが…」
ルビィは涙ぐむ。
それに対してレオンは、
「あいつは…、安らかな死に顔をしていた。だから、おれは気にしない。どうせいつかは死ぬんだ。安らかに死んだやつの勝ちだよ。人生ってやつは」
と、瀕死のくせに、毒を吐いていた。
ルビィは、医療道具を取り出すと、レオンの身体の傷口を縫ってやった。
かなりの時間がかかったが、とりあえずの応急処置は済ませた。
「さあ、休み休み歩きながら、村を目指すわよ。肩を貸すから立って」
レオンは立ち上がると、ルビィの肩に身体を預けた。
「こんな屈辱、はじめてだ」
どうやらこの男は、他人の肩を借りることが、とても嫌いらしい。
ふたりはゆっくりと、一歩ずつ歩いてゆく。
霧の古城の霧が晴れた。
村の老人は、こんなことははじめてだと、口々にいっていた。
霧が黒くなったり、晴れてみたり、ふしぎですねえと、婦人たちはいう。
おもしれえやと、子供たちが騒ぐ。
男たちは、なんらかの対策を取るべきだと、話し合いをはじめたりした。
いずれにせよ、彼らは霧の古城で起きたできごとを知らずに、今日のできごとをいつか忘れ、またいつもどおりの平凡な暮らしに戻ったりしながら、人生を終える。
それもまた、そのひとの人生。
かけがえのない存在である。
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